ぽっちゃりボディの高性能! ウーヴォ・フェラーリ(2) シャシーは166MM エンジンは212
公開 : 2025.01.11 17:46
ジェームズ・ディーンとの写真も残るフェラーリ
ジャンニーノは、これを節目にウーヴォ・フェラーリでの参戦を終了。マルゾット家による所有は続き、レーシングドライバーのグイド・マンチーニ氏によるミッレ・ミリアなど、1952年シーズンにも勇姿は披露されたが。
当時の彼は、家族が営むビジネスを継ぐことが未来だと理解していた。祖先が1836年に北イタリアで小さな羊毛工場を立ち上げ、父が規模を拡大。農業にも進出し、ヴァルダーニョという町に独自のコミュニティーを形成するまでに至っていた。
住宅や学校、スポーツ施設、文化施設などを地域に提供。その後数世代に渡って、社会的な貢献は続けられている。
一方のウーヴォ・フェラーリは、1953年にメキシコへ。アメリカ・ロサンゼルスを拠点にするスペイン語の新聞、「ラ・オピニオン」の発行人だったイグナシオ・ロザノ・ジュニア氏が購入。1954年のペブル・ビーチなど、復数のイベントへ参加している。
銀幕のスター、ジェームズ・ディーン氏は、ワーナー・ブラザース・スタジオ・バーバンクでの撮影の合間に、近所のワークショップへ止まっていたこのフェラーリを偶然発見。一緒の写真が残されている。
イグナシオはその後手放し、アメリカのデビッド・アンドリュース氏が購入。アメリカ製V8エンジンへ換装するため、V12エンジンは降ろされてしまう。その後、1982年にフェラーリ・マニアのジャック・デュ・ガン氏のもとへ渡った。
風光明媚なイタリアを疾走する勇姿が想起
その時点で、ウーヴォ・フェラーリはすっかり輝きを失っていた。ジャックはレストアを決め、繊細なボディは破棄されることなく丁寧に補修された。エンジンルームには、フェラーリ212 インター由来の2562ccが収められた。
レストアは、1986年のミッレミリア回顧イベントまでに終了。それ以降、数年ほど出展は続き、多くの来場者の目を驚かせてきた。
ジャンニーノとの再会も果たされた。その場で運転も楽しんだが、ブレーキとステアリングはもっと効果的だったと記憶していたようだ。「少し時代遅れで、改善の余地はないでしょうね」。と、皮肉を込めて振り返ったという。
唯一無二の卵型フェラーリは、果敢に速さを求めた若きジャンニーノの意志が形となって現れたもの。スパルタンなコクピットへ座り、高い位置のボンネット越しにステアリングホイールを握れば、風光明媚なトスカーナ地方を疾走した勇姿が想起される。
当時としては非常に有能なロードレーサーは、咆哮を放ちながら、路面へタイヤ痕を刻んでいったに違いない。果敢なアマチュア・ドライバーの手で成功を掴めた時代が、数世代前のイタリアには存在していたのだ。
協力:モーリッツ・ワーナー氏、キース・ブルーメル氏、バーカウェイズ社、サロン・プリヴェ