【東京オートサロンを終えて思うこと】欧米では常識外の異端児!大きな変化のきっかけはAMGだった
公開 : 2025.01.13 11:45
東京オートサロン2025が1月10~12日に幕張メッセで開幕されました。今年も会場は大盛況でした。今や各メーカーやインポーターも出展する現在の形に、なぜ至ったのでしょうか? 海外の状況と照らし合わせて、桃田健史が解説します。
異端児という魅力に惹かれているような現場
正月開けのクルマの祭典、『東京オートサロン』が今年も盛況のまま閉幕した。トヨタを筆頭とする国内自動車メーカー各社が大規模なブース展示を行うほか、フォルクスワーゲン、BMW、ヒョンデ、BYD等の輸入車やアフターマーケットに関する出展が目白押しだ。場内は、例年通りの活気があった。
東京オートサロンには海外からの取材や見学者も少なくない。彼らにとっては欧米や中国では感じ取れない、『異端児』という魅力に惹かれているような現場だからだろう。2023年に東京モーターショーから進化した、ジャパンモビリティショーと比べると、東京オートサロンの特殊性が鮮明になる。
見方を変えれば、旧東京モーターショー時代には「東京オートサロンの方が楽しい」という来場者の声も参考にしながら、モーターショーからモビリティショーへの転身を図ったとも言える。
では、どうして東京オートサロンには、そんな独特の世界観があるのか? また、その世界観はこれからの日本社会において、プラス効果があるのだろうか?
筆者は、東京オートサロンの前身である、東京エキサイティングカーショーの企画段階から主催者側との交流があり、その後に段階を追って変化していった東京オートサロンを肌感覚で捉えてきた。
また、米ラスベガスのSEMAショーや、独エッセン・ショーなど、海外のアフターマーケット関連イベントも1980年代から定常的に取材してきた。そうした実体験を基に、東京オートサロンの独自性の背景について、掘り下げてみたい。
リアルにエキサイティングだった創世記
東京エキサイティングカーショー開催の1980年代、ショー会場の周辺はひとことでいえば、ハチャメチャだった……。全国各地から、『シャコタン』、『竹ヤリマフラー』、そして巨大な手作りエアロパーツなどを纏った自慢のクルマたちが、当時の開催地である東京・晴海に集結したのだ。
そもそも東京エキサイティングカーショーは、モータースポーツ関連イベントと併開催する形で発想されたものであり、派手な改造車が主役という訳ではなかった。だが、自動車雑誌を扱う出版社では、既存雑誌の中でチューニングカー、カスタムカー特集をよく組むようになり、その延長上としてチューニングカー、カスタムカー専門誌が続々と発行されていく。
そうした専門誌の企画として、全国各地のチューニングショップのオーナーやメカニックがキャラ付けされ、彼らは業界有名人になった。
そんな有名ショップにユーザーがチューニングやカスタムを依頼(契約)する商談の場として、様々なイベントが開催されるようになるのだが、その中で最も規模が大きくなったのが東京オートサロンだ。ユーザーにとっては、専門誌が描く世界が『リアルと空想の中間』のような感覚を抱いており、自分もその世界に入ってみたいという思いがあった。
こうした独特の世界感に対して、自動車メーカー各社は一定の距離を保って静観していた。なぜならば、メーカーとして責任が負えないからだ。
自動車メーカーの業務内容は、新車の生産と正規販売会社への卸売りである。その後、販売されたクルマをユーザーのどのようにチューニングするかは、あくまでもユーザーの自己責任。そこに自動車メーカーは積極的に関与しない姿勢を取っていた。
こうした自動車メーカーの企業姿勢は、日本だけではなく欧米でも共通だった。ところが、ある事案をきっかけに、この不文律が崩れる。