シトロエン・ビジュー – 1960年

シトロエンは1953年から1960年にかけて、英国スラウで2CVの生産を行っていたが、販売は振るわず、未使用のシャシーが余った。そこで、スペアパーツを活用したコンパクトなクーペモデルとして、フランス語で「宝石」を意味するビジュー(Bijou)が構想された。

アイデアは的を射ていたが、現実は厳しかった。英国ではスポーティで手頃な価格のクーペがいくつか販売されており、ビジューの性能はそれらに及ばなかった。ガラス繊維製ボディは標準的な2CVよりも重く、速度が遅かったのだ。車内は狭く、スタイリングも好みが分かれるものであった。こうした理由から、ビジューは207台しか売れなかった。

シトロエン・ビジュー - 1960年
シトロエン・ビジュー – 1960年

ヒルマン・インプ – 1963年

ヒルマン・インプは、斬新なリアエンジン設計によりミニに戦いを挑んだ。この設計を採用した英国製量産車は、インプが初めてであった。軽快なハンドリングと優れたエンジンにより、ミニよりも運転しやすいと考えられていたが、やがて品質の問題に悩まされるようになる。インプは、自動車製造の経験のない労働者が働くスコットランドのリンウッドにある新工場で製造されていた。

その他にも、ミニのトランクほど実用的ではないガラス製リアハッチや、空気圧式スロットルなど、弱点となった部分はいくつもある。インプとその派生モデルは1976年まで製造され、その間に44万32台が出荷されたが、その頃にはミニの販売台数は数百万台に達していた。

ヒルマン・インプ - 1963年
ヒルマン・インプ – 1963年

モーガン・プラスフォー・プラス – 1963年

もともと年間販売台数が数百台のメーカーにとって、失敗作と呼べるのは一体どれほどの規模なのか、想像するのは難しい。プラスフォー・プラスの場合、総生産台数は26台である。モーガンの伝統的なスタイルや構造から大胆に脱却しようとした意欲的なモデルだが、MGAに似た外観やグラスファイバー製ボディが顧客層に与えた違和感はあまりにも大きかった。

今ではその希少性の高さから、プラスフォー・プラスはモーガン愛好家にとって非常に価値のあるモデルとなっている。信頼性の高いトライアンフTR4の機械部品により、手入れが簡単で運転しやすい。モーガンの考え方を変える1台であったが、しばらく後にエアロ8で似たような過ちが繰り返されることになる。

モーガン・プラスフォー・プラス - 1963年
モーガン・プラスフォー・プラス – 1963年

アストン マーティン・ラゴンダ – 1974年

1976年に発表されたウェッジシェイプボディのラゴンダは、16年間の生産期間にわずか645台が出荷されたに過ぎず、爆発的なヒットとは程遠いものであった。しかし、1974年から1976年にかけて製造された先代のラゴンダがわずか7台であったことを考えると、これは非常に多い台数と言える。アストン マーティンDBS V8のロングホイールベース版をベースに、より丸みを帯びた外観となったラゴンダ。商業的な理由だけでなく、同社の社長であるデヴィッド・ブラウンのために作られたものでもある。

長いボンネットの下に5.3L V8エンジンを搭載され、そのスタイリングは本格的な4ドアには適していなかった。燃料危機やアストン マーティン社の経営難を理由に、顧客は寄り付かなかった。

アストン マーティン・ラゴンダ - 1974年
アストン マーティン・ラゴンダ – 1974年

記事に関わった人々

  • 執筆

    AUTOCAR UK

    Autocar UK

    世界最古の自動車雑誌「Autocar」(1895年創刊)の英国版。
  • 翻訳

    林汰久也

    Takuya Hayashi

    1992年生まれ。幼少期から乗り物好き。不動産営業や記事制作代行といった職を経て、フリーランスとして記事を書くことに。2台のバイクとちょっとした模型、おもちゃ、ぬいぐるみに囲まれて生活している。出掛けるときに本は手放せず、毎日ゲームをしないと寝付きが悪い。イチゴ、トマト、イクラなど赤色の食べ物が大好物。仕事では「誰も傷つけない」「同年代のクルマ好きを増やす」をモットーにしている。

自動車業界の歴史に残る失敗作の前後関係

前後関係をもっとみる

関連テーマ

おすすめ記事

 

人気記事