たった29台のアルミボディ メルセデス・ベンツ300SL ライトウエイト(1) 1年で終了の理由は?

公開 : 2025.02.22 17:45

ラジオを聞きながら運転できたほど穏やか

かつてのナスカーといえば、手書きであしらわれたボディサイドの大きなカーナンバーがトレードマーク。この300SL ライトウエイトにも、同様のレタリングがガルウィングドアへ施されている。

キーケーファーがオーナーだった頃は、マーキュリー・マリン社の船外機の名が大きくペイントされていた。ナスカー・マシンのクライスラー300Bと同じように、ホワイトの塗装へ「Kiekhaefer Outboard」と大きく記されていたのだ。

メルセデス・ベンツ300SL ライトウエイト(1955〜1956年/北米仕様)
メルセデス・ベンツ300SL ライトウエイト(1955〜1956年/北米仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

この唯一の戦歴といえるのが、1955年にノースカロライナ州で開かれた、ローリー・スピードウェイ100マイル・レース。ペーパークリップ型のオーバルコースで実施された、ナスカーの前座のようなイベントだった。

ドライバーは、ナスカーで後に優勝を掴むティム・フロック氏。フォード・サンダーバードやシボレーコルベットなどを抑えて、トップでゴールしている。平均時速は、125.8km/hだったという。

勝利を受けてインタビューに答えたフロックは、ラジオを聞きながら運転できたほど穏やかな体験だったと振り返っている。250GT ベルリネッタやDB3 Sほどの強敵とはいえなくても、充分に満足のできる結果だったはず。

それ以降も、キーケーファーの300SL ライトウエイトはレースを戦った可能性はある。しかし、記録は残されていない。

彼は、通常のスチール製ボディのW198型300SLも所有していたが、レーシングカーとして以上に、愛すべきコレクションとして大切にしていたようだ。家族と一緒に撮られた写真は、保管されているという。

激しい負荷でシャシーから外れたボディ

彼が1988年にこの世を去ると、息子のフレッド・キーケーファー氏が継承。数年後に、ウィスコンシン州ミルウォーキーの、ブルックス・スティーブンス自動車博物館へ売却されている。

1996年には、スーパーマーケット大手、ウォルマートの創業者を父に持つ、サミュエル・ロブソン・ウォルトン氏が購入。2004年にかけて、入念なレストアが実施された。

メルセデス・ベンツ300SL ライトウエイト(1955〜1956年/北米仕様)
メルセデス・ベンツ300SL ライトウエイト(1955〜1956年/北米仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

2006年からは、フリードヘルム・ロー氏がオーナーに。彼は世界有数のメルセデス・ベンツ・コレクターで、この300SL ライトウエイトを含めたコレクションの多くは、ドイツ・フランクフルトの国立自動車博物館に現在も展示されている。

キーケーファー以外が購入した300SL ライトウエイトも、一定の戦績を残した。1956年と1957年にイタリアの公道レース、ミッレミリアへ参戦したのは、アルベリコ・カッチャーリ氏。だがそのボディは、走行中にシャシーと別方向に捻れたという。

軽いチューブラーフレームのシャシーには、高強度のボディが必要だった。アルミ製ボディシェルは変形しやすく、激しい負荷がかかるとボディマウントから外れることが判明。メルセデス・ベンツは、約1年でライトウエイト仕様の生産を中止している。

1955年の半ばに、「スポーツアベイラブルンク」と呼ばれる300SLのワークスラリーマシンが4台作られている。それには、いずれもスチール製ボディが架装されていた。

この続きは、メルセデス・ベンツ300SL ライトウエイト(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    チャーリー・カルダーウッド

    Charlie Calderwood

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

メルセデス・ベンツ300SL ライトウエイトの前後関係

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