市場を食い合った同郷ライバル ライレーMPH(1) 技術はワークスマシン並み 生産は15台

公開 : 2025.02.23 17:45

ワークスマシンと同等の、90年前では最高水準の技術を得たライレーMPH 市場を食い合った同郷のナイン・インプ 南アフリカから戻った直6エンジンの貴重な1台を、英編集部がご紹介

当時の最高水準といえる技術を得たMPH

現代の自動車は、徹底的な市場調査を経て開発が進められる。だが1世紀前は違っていた。特に英国のライレーは、「作れば売れる」という哲学で経営されていた。

今回ご紹介するライレーMPHの生産数は、1934年から1935年までの1年間だけだったとはいえ、僅か15台。当時でも、少し自信過剰な考えだったことがうかがえる。

ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)
ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

それでも、当時の最高水準といえる技術が盛り込まれた、容姿の整ったスポーツカーだった。1934年のル・マン24時間レースを、総合2位と3位でフィニッシュしている。英国版アルファ・ロメオ8C-2300と表現しても、筆者は過言ではなかったと思う。

その価値が認められ、状態の良いファクトリー・レーサーの落札額は、約75万ポンド(約1億4625万円)に達する。希少なだけでなく、運転のしやすさと140km/hに迫った高性能が、筋金入りのマニアを惹き付けている。

MPHは、ライレーによる約10年間のモータースポーツ活動の集大成といえた。1926年に登場した、先代に当たるライレー・ナインが積んだのは、オーバーヘッドバルブを採用した1087cc 4気筒エンジン。シンプルな設計で、高回転型のユニットだった。

その完成度は非常に高く、MPHに搭載された直列6気筒エンジンへ派生している。1938年に経営者へ就いたウィリアム・リチャード・モリス氏は、1957年まで、ほぼすべての自社製ユニットの原型として採用し続けたほど。

公道用のパワフルなスポーツカー:シックス

ナインは、モータースポーツでの戦績も見事。1920年代後半から1930年代前半にかけて、大恐慌が世界を襲う中、ライレーのブランド力を保つことに繋がった。

ワークスチームが用意したブルックランズ・ナインは、1929年から1931年まで、アイルランドで開催されたRAC(ロイヤル・オートモービル・クラブ)アーズTTレースで連続クラス優勝。1932年には総合優勝を掴んでいる。

ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)
ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

同時にその頃、創業者の1人、ビクター・ライリー氏は公道用のパワフルなスポーツカーを求めた。そこで誕生したのが、ライレー・シックス。ナインの4気筒へ2本のシリンダーを追加し、1.5L直列6気筒エンジンを開発。1500cc以下のクラスに適合した。

ところがシャシーの基本設計は6年前といえ、ナインほど走行性能は高くなかった。英国のMGが、より小型・安価なモデルを提供し、ライレーの市場を脅かしてもいた。

販売を上向かせるべく、構造材がフロントアクスルの上を交わしリアアクスルの下へ潜る、新しいシャシーを開発。ホイールベースは短縮され、車高は低められた。

サスペンションは、前後に半楕円のリーフスプリングを採用。デュプレックス・ハートフォード社製のフリクション・ダンパーが組まれ、ケーブルで制御されたブレーキは15インチのアルミ製ドラム。ボディの形状も、丸みを帯びたものに置換された。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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