市場を食い合った同郷ライバル ライレーMPH(1) 技術はワークスマシン並み 生産は15台

公開 : 2025.02.23 17:45

ワークスマシンと同等のメカニズム

1933年のRACアーズTTには、改良版のワークス・シックスを、モデル名を隠した状態で4台エントリー。ブレーキトラブルで3台が早々にリタイヤするものの、生き残った1台はクラス優勝を遂げている。総合でも8位に食い込んだ。

1934年のRACラリーにも、2台のワークスマシンが参戦。スタイリッシュなアルミニウム製ボディは、イタリアのカロッツエリアによる仕事をイメージさせた。だが1934年5月号のAUTOCARは、これがライレーの新しいMPHシックスだと報じている。

ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)
ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

正式名称はシンプルにMPHへ決まり、量産仕様がラインオフしたのは1934年の夏から。ナインの4気筒から派生した、1459ccか1633cc、1726ccという3種類の6気筒エンジンが当初から選択できた。

MPHはボディ以外、基本的に1933年のRACアーズTTを戦ったマシンと同等といえた。発売時のキャッチコピーは、「日常のどんな場面にも最適な、最高品質の英国車」だ。

ドラムブレーキには、アルミではなくスチールを採用。当時のセミATといえる、プリセレクター4速マニュアルも、オプションとして用意された。今回ご登場願った1台は、そのトランスミッションを積んでいる。

プロペラシャフトは、強化のためのトルクチューブ内を貫通し、リアアクスルへパワーが伝えられた。トップギアで5500rpm時の最高速度は、140.2km/h。これは、1930年代の量産スポーツカーとして、不満のない速さといえた。

市場を食い合った同郷のライバル

その頃のAUTOCARも、仕上がりを称えている。「スポーツ志向でオープンエア・ドライブを好むドライバーにとって、ライレーMPHは極めて魅力的に映るでしょう」

しかし、最大の弱点になったのが550ポンドという価格。直列6気筒エンジンを積んだ競合、MG Nタイプ・マグネットは、ほぼ同等の速さを備え、実用性も高く、200ポンド以上も安かったのだ。

ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)
ライレーMPH(1934〜1935年/英国仕様)    マックス・エドレストン(Max Edleston)

加えてMPHは、キャビンが狭かった。燃料タンクとスペアタイヤでボディの余地は埋まり、荷物を置ける場所はほぼなかった。

同郷のライバルとして市場を食い合ったのが、1934年のライレー・ナイン・インプ。1.1L 4気筒エンジンで動力性能は及ばなかったが、車重は軽く、価格は325ポンドと遥かにお手頃だった。結果として、MPHの生産は2台の試作車を含めて15台で終了した。

今回ご登場願ったMPHは、最も詳しい記録が残されている1台。シャシー番号は44T 2278で、1935年2月16日にグレートブリテン島中東部、ラトランドでFP 2831のナンバーで登録されている。

最初のオーナーは、ジョン・セシル・ノエル氏。彼はライレーのファンで、アルミボディのナイン・モナコと、サルーンのナイン・ファルコンも所有していた。1934年のル・マン24時間レースへ、アストン マーティン・インターナショナルで参戦してもいる。

この続きは、ライレーMPH(2)にて。

記事に関わった人々

  • 執筆

    サイモン・ハックナル

    Simon Hucknall

    英国編集部ライター
  • 撮影

    マックス・エドレストン

    Max Edleston

    英国編集部フォトグラファー
  • 翻訳

    中嶋健治

    Kenji Nakajima

    1976年生まれ。地方私立大学の広報室を担当後、重度のクルマ好きが高じて脱サラ。フリーの翻訳家としてAUTOCAR JAPANの海外記事を担当することに。目下の夢は、トリノやサンタアガタ、モデナをレンタカーで気ままに探訪すること。おっちょこちょいが泣き所。

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