【第5回】サイトウサトシのタイヤノハナシ~速度記号の歴史についてひも解いてみました~

公開 : 2025.02.19 17:05

規格外のクルマがタイヤのルールを変えた

60年代後半になるとさらにクルマの高性能化・高速化に拍車がかかります。そして1966年にランボルギーニ・ミウラが登場します。装着していたタイヤはピレリ・チントゥラートHS CN72で、サイズは205VR15でした。このとき、はじめてHを超えるスピードシンボルのVが採用されたといわれています。

もっとも、スピードシンボルが公式に統一されたのは1973年のことで、ETRTO(欧州タイヤ・リム技術機構)によってまとめられています。

今や高性能車に必須の低扁平率タイヤ。扁平率が低くなるほど、トレッドの接地幅が広くなる(写真はロールス・ロイス・スペクター)。
今や高性能車に必須の低扁平率タイヤ。扁平率が低くなるほど、トレッドの接地幅が広くなる(写真はロールス・ロイススペクター)。    斎藤 聡

この時のスピードシンボルは、以下の表のとおりです。

速度記号最高速度(km/h)
J100
K110
L120
M130
N140
P150
Q160
R170
S180
T190
U200
H210
V240

IとOは数字の1と0と混同しやすいので除外し、従来から使われていたSに180km/hの速度を割り当て、Hを210km/hとして、アルファベットを10km/h刻みで割り振りました。その結果S=180km/h、T=190km/h、U=200km/hで、H=210km/hが入り、Vは240km/hとされました。

翌1974年にはISO(国際標準化機構)がこのスピードシンボルを採用し、初めて正式に規定しました。

当時は165SR14とか、185HR15といった表記方法でした。扁平率は82%偏平のタイヤが一般的で、表記はしていませんでした。

タイヤの高性能化とともにタイヤの扁平率も低くなり、215/70VR15&255/60VR15(ミウラP400 SV・1971年)など扁平率も表記されるようになっていきます。

Zで終わらなかった最高速の上昇

その後もスポーツカー、スーパーカーの最高速度は上がり続け、これに対応するために1982年に240km/h以上を意味するZRが追加されます。最初にZRのスピードシンボルを採用したのはランボルギーニ・カウンタック25THアニバーサリー(1988年)で、前225/50ZR15・後345/35ZR15のピレリP7でした。

ISOではZRを240km/h以上のスピードに耐える構造を持ったタイヤと規定していました。速度シンボルにZを使ったことからも想像できるように、これ以上のクルマの高速化は一般的には普及しないと考えていたのかもしれません。

現在ではスーパーカーメーカーがSUVやクロスオーバーを生産するケースも多く、扁平率を下げすぎないで高速走行にも耐えるタイヤも求められている。タイヤの進化は止まるところを知らない(写真はフェラーリ・プロサングエ)。
現在ではスーパーカーメーカーがSUVやクロスオーバーを生産するケースも多く、扁平率を下げすぎないで高速走行にも耐えるタイヤも求められている。タイヤの進化は止まるところを知らない(写真はフェラーリプロサングエ)。    斎藤 聡

ところが1980年代後半、300km/hを軽々と越えてしまうスーパースポーツカーが登場します。フェラーリF40ポルシェ959はその代表モデルです。ポルシェ959の標準タイヤはブリヂストンが担当し、専用開発のポテンザRE71は前235/45R17・後255/40R17。F40はピレリP-ZEROで、前245/40ZR17・後325/35ZR17です。ちなみにP-ZEROは、このF40のために開発された専用タイヤでした。いずれもスピードシンボルはZRでした。

1991年にETRTOがZRのスピードレンジを細分化。270km/hを意味するWと、300km/hを意味するYを追加します。

これに伴ってZは、1991年以前の速度シンボルから、1991年以降は240km/h以上の高速走行に耐える構造を持ったタイヤの記号であるZRとして、WやYと合わせて使われるようになったのです。275/40ZR18Wや325/30ZR19Yといった具合です。

さらに、2000年代に入ると最高速度が300km/hを超えるスーパースポーツカーが増え、ついに2025年発行のISOの国際規格ISO4000-1:2015(E)には(Y)(カッコY)というスピードシンボルが記載されました。

さてこの先(Y)を超えるスピードシンボルは生まれるのでしょうか?

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    斎藤 聡

    1961年生まれ。学生時代に自動車雑誌アルバイト漬けの毎日を過ごしたのち、自動車雑誌編集部を経てモータージャーナリストとして独立。クルマを操ることの面白さを知り、以来研鑽の日々。守備範囲はEVから1000馬力オバーのチューニングカーまで。クルマを走らせるうちにタイヤの重要性を痛感。積極的にタイヤの試乗を行っている。その一方、某メーカー系ドライビングスクールインストラクターとしての経験は都合30年ほど。

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