【東京名所、39年の歴史に一旦幕】『ホンダ青山ビル』クロージングセレモニーで考えた「小さい会社」の未来

公開 : 2025.04.04 17:05

2025年3月31日、午後7時半過ぎ。1985年に完成した本田技研工業の本社ビル、通称『ホンダ青山ビル』が建て替えのため休館しました。その場に立ち会った桃田健史が、ホンダの未来を考察します。

「東京に行ったら、ぜひ青山にあるホンダに行ってみよう」

2025年3月31日、午後7時半過ぎ、ホンダ青山ビル1階の正面入口にカーテンが降りてきた。その奥では、ホンダ関係者が深く頭を下げて、39年間の愛顧に感謝の意を示している。

1985年に完成した、本田技研工業の本社ビルである、通称『ホンダ青山ビル』。1階には、誰でも気軽に入れ、ホンダのクルマやバイクに触れ、カフェで一息つけ、そして様々なイベントを楽しむスペースとして、『ホンダウエルカムプラザ青山』が生まれた。

2025年3月31日、午後7時半過ぎ、ホンダ青山ビルが一旦休館した。
2025年3月31日、午後7時半過ぎ、ホンダ青山ビルが一旦休館した。    桃田健史

全国各地から「東京に行ったら、ぜひ青山にあるホンダに行ってみよう」と、東京名所のひとつになっていた。近年は、海外からのインバウンド観光客にとって、「気軽に過ごせる、ホンダのヘッドクォーター(本社)」として好評だった。

そんなホンダウエルカムプラザ青山が、一旦お休みとなる。

今後どのような形で再開するのか、詳細については明らかにされていない。2025年度からビル全体の解体工事が始まり新築工事に移り、新社屋完成は2030年度の予定だ。

現時点で、新社屋の完成予想図は公開されていない。分かっているのは、大きく4つの要素を取り入れることだ。

1つ目は、『環境』。ネット・ゼロ・エネルギービル(ZEB)実現に向けた世界トップクラスの環境を念頭に置く。
2つ目は、『安全』。人と地域に配慮した先進の防災、安全設計。
3つ目は、『対話』。イノベーションにつながるコミュニケーションを誘発する職場環境。
4つ目が、『発信』。より良い未来を想像するホンダの活動を発信し、共感と共鳴を起こす空間。
5つ目は、『持続』。存在を期待される企業であるための、事業変化に対応できるフレキシブルな設計。
そして6つ目が、『調和』。地域活性化に寄与する、誰もが利用できる『青山一丁目交差点のオアシス』である。

果たして、こうしたホンダの目指す『ホンダらしさ』が、新たなホンダ青山ビルにどのように反映されるのか、いまからとても楽しみである。だたし、不安もある……。

「ウチみたいな小さな会社」

ホンダだけではなく、また日本のみならず、自動車メーカーは今、大きな時代の転換期に直面している。

もう言い尽くされているとも感じるが、『CASE』(コネクテッド・自動運転技術・シェアリングなどの新サービス・電動化)や、『MaaS』(モビリティ・アズ・ア・サービス)、そして『SDV』(ソフトウェア・デファインド・ビークル)といった技術やサービスに対して、IT産業など他分野からの本格的な参入が一気に増えている状況だ。

1階はホンダウエルカムプラザ青山として、長年多くのファンが通った。
1階はホンダウエルカムプラザ青山として、長年多くのファンが通った。    桃田健史

直近では、いわゆるトランプ関税によって、日本からアメリカへ、または貿易協定であるUSMCA(アメリカ・メキシコ・カナダ協定)によって、ホンダを含めてアメリカ向け製品の物流や製造プロセスを大きく変える必要に迫られている状況だ。ホンダ幹部も「今、世の中の先行きを予測することは極めて難しい」と表現する。

そんなホンダについて、2000年代に入ってからも、ホンダ幹部はよく「ウチみたいな小さな会社」という言い回しを使うことがあった。

これは1960年代から1970年代に入社した人たちで、トヨタ日産などに比べて、四輪事業への参入が遅かったホンダは新興勢力であり、「まだまだ小さい会社」という意識を持ち続けていたからではないだろうか。しかし、その時点ですでに売上高は10兆円を越えていた。

直近の2024年3月期決算では20兆円を越えており、いまいま「小さな会社」というホンダ社員や役員はいなくなった。「小さい会社」だった頃、つまりホンダ初期を知る人はもうホンダにいない。

本社で見れば、ホンダ青山ビルに移転するまで、渋谷駅と原宿駅の中間の明治通り沿いにあった本社を知る人もほぼいない。むろん、東京駅八重洲口にあったビルが本社機能を持っていたことをリアルタイムで知る人も、ホンダにはもういない。

そしてこれからの時代は、初代ホンダ青山ビルで従事したことのない人たちが、ホンダの未来を担うことになる。

記事に関わった人々

  • 執筆 / 撮影

    桃田健史

    Kenji Momota

    過去40数年間の飛行機移動距離はざっと世界150周。量産車の企画/開発/実験/マーケティングなど様々な実務を経験。モータースポーツ領域でもアメリカを拠点に長年活動。昔は愛車のフルサイズピックトラックで1日1600㎞移動は当たり前だったが最近は長距離だと腰が痛く……。将来は80年代に取得した双発飛行機免許使って「空飛ぶクルマ」で移動?
  • 編集

    平井大介

    Daisuke Hirai

    1973年生まれ。1997年にネコ・パブリッシングに新卒で入社し、カー・マガジン、ROSSO、SCUDERIA、ティーポなど、自動車趣味人のための雑誌、ムック編集を長年担当。ROSSOでは約3年、SCUDERIAは約13年編集長を務める。2024年8月1日より移籍し、AUTOCAR JAPANの編集長に就任。左ハンドル+マニュアルのイタリア車しか買ったことのない、偏ったクルマ趣味の持ち主。

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