アイルトン・セナ ーー 21年目の真実

公開 : 2015.05.02 22:55  更新 : 2017.06.01 02:10

今から21年前の1994年5月1日、今や伝説のF1ドライバーとなったアイルトン・セナは、F1第3戦の行われたイモラ・サーキットのタンブレロ・コーナーで帰らぬ人となった。われわれはセナを知る数人に、セナとの想い出について語ってもらった。

デイモン・ヒル ーー 1996年F1ワールド・チャンピオン、そして1994年ウイリアムズでのチーム・メイト

セナとチーム・メイトとなったのは1994年シーズンのウイリアムズ時代のことだった。セナが命を落としたサンマリノ・グランプリがその年の第3戦だったから、そう長い期間チーム・メイトとして働いたわけではない。だが、セナがかなり厳粛な人間であったということは確かだ。F1のキャリアをスタートする前に、セナについて、そしてセナのパフォーマンスについて学んだ記憶がある。そして、ウイリアムズではじめてチーム・メイトとなった時、学んでいた彼のイメージと、実際の人物像を重ねようとした。結果から言えば、イメージとほぼ変わらない人物であったということだ。彼が二面性を持っていたとは思わない。実に自分自身に純粋な人間だった。セナから学んだことといっても、セナとはレベルが違ったので、まずは2人の間の関係性を築くことに必死だったように思う。と言っても、セナは、彼の家にお茶をするために招いてくれるようなタイプではなかった。しかし、後に私がF1ドライバーとして名を為すようになった時、彼の考えがわかったような気がした。皆が考えるように、セナは純粋な人間だったし、それは非常にこの世界では珍しく貴重な存在だった。

イアン・ハリソン ーー セナが亡くなった時のウイリアムズ・チーム監督

セナがウイリアムズに加わった時点では、チームと彼の間に距離があったように思う。6シーズンを一緒に戦ったマクラーレンを離れたセナが、チームを値踏みしているといった感じがあった。しかし、彼を最初にファクトリーで出迎えた時のことはよく覚えている。非常に静かで礼儀正しい男だったと記憶している。彼は非常に現実を直視するタイプで、要求も多かった。しかし、決して声を荒げることはなかった。1994年の最初のレースで、彼はスピンしてリタイアした。その後、ピットに戻ると、そのことをセナは謝罪し、二度と起こさないと言った。イモラでの週末、ルーベンス・バリチェロとローランド・ラッツェンバーガーのアクシデントの後、メディカル・センターに行った時の彼のリアクションは慈悲深い人の反応そのものだった。彼は、命とは何であるかを深く知っている人間だった。

マレイ・ウォーカー ーー F1コメンテーターであり、最後にセナにインタビューした人物

私が、イモラの日曜日、セナにインタビューした最後の人間になってしまった。誰もがメディアとドライバーは仲が良いと思っているようだ。いくつかのケースではそれは正しいが、セナは非常にプライベートな男だった。プロフェッショナルとしては素晴らしい男だったが、彼が陽気で親しみやすかったとは言うことができない。英語が母国語でないにも関わらず、専門的な話になると非常に雄弁だった。彼のことが最初は良く判らなかったのも事実だが、人々は心の暖かい親切な男だと言っていた。しかし、深い信頼を築けた後でも、セナは私の知らない一面を持ち合わせていた。素晴らしく優秀な男であったのと同時に、神秘的な男でもあったのだ。そんな男はそれまでにあったこともなかったし、それ以降も会っていない。

デニス・ラッシェン ーー 1982年シーズン、フォーミュラ・フォード2000で戦ったセナにマシンを用意した人物

セナがフォミュラ・フォード2000を戦った時代というのは、現在のようなシミュレーターがなかった。ただ単にドライバーの目の前にはレブカウンターしかなかった時代だ。セナがわれわれの心を打ったのは、どんなサーキットのどんなコーナーでも、そしてどんな天候であろうと、正確にどのぐらいのグリップがあるかを理解していたことだ。これは、他のドライバーにはなかった驚くべき能力だ。オーストラリアのオステライヒリングで行われたFF2000では、埃っぽいコースということもあって、1周目に後続に5秒の差を付けてトップで戻ってきた。しかも、無理をした感じはなく、ナチュナルな走りだった。それが周囲がセナに注目した最初だったと思う。アイルトン ーー メカニックからはアリーと呼ばれていたセナは、非常にプライベートな人間だったが、モータースポーツにおいて彼をサポートした人をいつまでも覚えている人間だった。わたしも、定期的に彼とコンタクトをとっていた。私は1994年にセナと話したことを覚えている。彼は、その時、F1を愉しむことが出来ないと言っていた。彼が見せるボディ・ランゲージにも変化があった。もはや、彼は微笑んでいなかった。彼はその時、すでにF1から逃げ出したかったのかもしれない。

テリー・フラートン ーー カート・チャンピオンであり、当時セナの最大のライバルと呼ばれていた男

セナはカート・レースにニューカマーとして登場するやいなや、才能を発揮した。彼とは3年間、カート・レースを戦ったが、その3年間で彼は完璧なドライバーに成長していった。彼は誰よりも速いスピードを持っていたばかりではなく、技術的なフィードバックを伝える力もあった。そして、感情を抑える力も有していた。また、いざというときには一発勝負を掛ける心臓の強さも持っていた。セナは、執拗さ、決断の早さ、情熱、速さ、知的、そのすべてを兼ね備えていたので、彼が将来的にF1のトップになるとその時点から知っていたな気がする。セナは50年に1度の才能の持ち主だ。ただ、セナはその手の才能がジム・クラークにはあったと語っていた。セナは、その才能を引き継ぐものの出現を待っているかもしれない。

ロン・デニス ーー 言わずと知れたマクラーレン・グループの会長兼CEO

1998年にアイルトンとマクラーレンは契約した。マクラーレンが1983年に最初にテストをした時、彼はその前にテストした若いドライバーがダメージを与えたタイヤについて言及し、フレッシュ・タイヤの有無を尋ねたのを覚えている。アイルトンは確かに速かった。しかし、その時点ではアラン・プロスト、ニキ・ラウダと契約していたので、彼と契約することはできなかった。偉大なレーシング・ドライバーを見分ける重要な点は、チームに何が重要かを理解して、正確なドライブをする能力があるかないかということだ。アイルトンが、マクラーレンに加わったのには、ひとつはホンダ・エンジンに理由があったようだ。アイルトンがサリーのエッシャーに借りていた家で、契約金額についての話をしたのを覚えている。私は、最後には金額をコイン・トスで決めようと提案した。セナの家には、その当時やはりだったダーク・ブラウンのシャグピー・カーペットが引かれていた。ただし、コインはカーペットの上でなく、固い床に落ちてしまって、コイン・トスで金額を決めるという話は流れてしまったが。その時、話していたのは、1年につき$50万でどうかという話だった。その金額の話はしないが、結局3年契約で$150万以上であったことは確かだ。

ラルフ・ファーマン ーー 1981年シーズン、ヴァン・ディーメンFR81でフォーミュラ・フォード2000を走らせた人物

最初にセナが私の心を打ったのは、アイルトンが本物の男であったということだ。礼儀正しい男であり、彼のためにされたことすべてに感謝の心を忘れなかった。しかし、向上心は強かった。そして何よりも勝利に貪欲だった。週末、良い結果を残したレースを行った後でも、アイルトンは明けて月曜日にはファクトリーに顔を出し、エンジンやシャシーに対して不満を言い、ここをこうして欲しいと言っていた。それは彼の飽くなき欲求だった。その時、アイルトンは僅かに20歳だった。私も、彼の速さを充分に知っていたので、彼の意見をすべて信じることにしていた。彼がブラジルでカート・レースでの輝かしい経歴を持って英国にやってきた時点で、私はアイルトンが何かを成し遂げるだろうと信じてもいた。そして、嬉しいのは彼がF1にステップ・アップした後でも、定期的にコンタクトをとってくれたことだ。実際、彼がロータスで走っている時に幾つかの出来事が起こった時に、彼がアドバイスを受けようと私の帰りを待ち構えてくれたこともあった。アイルトンは可愛らしい男だったし、驚くべき才を持ったドライバーでもあった。

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