Circuito di Avezzano

2016.06.25

text:Masayoshi Ishida (石田雅芳)、Kunio Okada (岡田邦雄) photo:Masayoshi Ishida (石田雅芳)、Rene Photo

 
イタリアでは、これまでのレギュラリティ・ランのラリーには飽き飽きした、というヒストリックカーの愛好家も多いようだ。そんな達人のためのイベントがあるよ、と紹介されたのが「チルクーイト・ディ・アヴェッツァーノ」である。今年で4回目というまだ若いイベントだったが、日本から知人を誘って参加してみた。

6月25日にローマの東約60kmに位置するアブルッツォ州アヴェッツァーノを中心に「チルクーイト・ディ・アヴェッツァーノ」が開催された。戦前のOM、フィアット501、アルファ・ロメオ 6C2300などから、1960年代のモーガンジネッタまで85台が出場した。この時期イタリアでは、毎週末のようにクラッシクカー関係のイベントやタイムトライアル・レースが続いているが、このイベントの他と違う、際立った特徴は、主催者の目的が、参加者に、いかに楽しく、心地よいクラッシックカー・レースを堪能してもらえるか、ということに配慮していることだ。

かつてこの地方で開催されていたレース史に残るミカンジェリ杯を顕彰する記念イベントでもあるが、イタリアの他のヒストリックカー・ラリーとは違い、地域色豊かな料理を堪能する時間も十分あった。約200kmの山岳コースを一日中走って町に戻り、ホテルでシャワーを浴びてから愉快な仲間たち(参加者の皆さんたちとすぐに友達になったのだ!)と夕食を楽しむことができる。

昼間に行われる山岳レースは計測の数もそれほど多くなく、景勝地のツーリングを楽しむことができる。それぞれの秒数も簡単で間違えにくい設定だった。そして何よりもクラシックカーのイベントであるからこそ最新の電子機器は禁止され、機械式のストップウオッチのみが使用可能なのだ。おそらく、いわゆる線踏み競技には飽きてきた人たちもだんだん多くなってきているようだから、これは今後のクラシックカー・ラリーのひとつの方向性を示すことになるだろう。

舞台はミッレ・ミリアの難所のひとつとしておなじみのローマ直前にある標高の高い山岳地帯ではあるが、山あり谷あり湖ありの美しい風景も十分に堪能できる。

このレースの名物はアヴェッツァーノの市内を交通規制して行われる、ガラ・ノットゥルナ(夜のレース)である。コース内に路上駐車している一般車両が次々にレッカー移動されていくのを見るとびっくりするが、それはアヴェッツァーノ市が全面協力している証拠で、にわかにサーキットが作られた。

参加車両は町の中央にあるリソルジメント広場より順番に出走して3周するという。私はオーガナイザーからコンディションの良いMG Aを提供していただき、一日中運転していささか疲れを感じていたので、この夜のレースは日本から一緒に参加した友人にハンドルを譲ることにした。1周目はPC競技だったが、スタート地点に戻るとなぜか全車両が一旦停車させられている。これからどういうことになるのかな、と思っていたら、やおら大会委員長フェリーチェ・グラツィアーニの不敵な笑みと共にチェッカーフラッグが振られ、参加車は次々に勢い良くスタートしていくではないか。何とここから2周はスピードレースなのだった。運転をまかせた私の友人も、急に瞳が輝いて、アクセルを踏み込みスタートした。わ!いきなり、直角のカーブだ。しかし、瞬時のシフトダウンで、うまく曲がった後は、正確なシフトアップの連続で、ものすごい加速で駆け抜けてゆく。豹変した友人の姿に一瞬は驚いたものの、次の瞬間にはその爽快さに笑いが止まらなかった。

これまでのクラッシックカー・イベントにはない最高の愉悦を味わえる、『チルクイート・ディ・アブルッツォ』は、参加者たちの笑顔とともに大成功に終わった。

  • 勇敢なライダーだったベルナルド・タラスキによって戦後すぐに作られたのがウラニア・タラスキBMW。おそらく2台が作られ現存する。1950年からはジャンニーニが開発したエンジンを搭載したジャウル・タラスキが多数作られ、750ccクラスで活躍した。

  • 今回、登場したウラニア・タラスキは、不世出の女性レーサーだったマリア・テレーザ・デ・フィリッピスがかつて乗っていたクルマそのもの。OSCAやマセラティでの活躍で有名な彼女は史上初の女性F1レーサーでもあった。今年1月に逝去された…。

  • ミラノでチシタリア、OSCA、フェラーリの代理店として有名なクレパルディは、フランスのパナールのインポーターでもあり、ディナにイタリアで製作したボディを載せてレースで活躍した。これはミケロッティのデザインで、トリノのアレマーノが製作した。これのベルリネッタは日本に存在する。

  • ゼッケン25は1950年型フィアット1100ESをベースのバルケッタ。30番はイギリスのコンストラクター、エルバのMk-1Bで、イタリアのバルケッタが入手し易いフィアット・トポリーノや1100のエンジンを使ったように、イギリスのコンストラクター達はローラもロータスもエルバも、入手し易いフォード10の1172ccのエンジンを搭載するところからスタートした。

  • ペサロのカロッツェリア、フェルナンド・オルトラーニによって、1949年に作られたバルケッタ。おそらくエンリコ・ナルディによって作られたチューブラー・フレームに1100のエンジンを搭載している。第2次世界大戦後のイタリアでは、週末になると各地で公道を閉鎖したレースが催され、このオルトラーニのように各地の町工場でレーシングカーが作られていた。

  • この1948年のスタンゲリーニ1100Sのドライバーの奥様は、夫がレースに出ることをいつも反対していたという。そのため旦那は奥様を少しでもなだめようと思ったのか、ボンネットに奥様の愛称だったMICIA(ミーチャ=子猫ちゃん)の文字を入れ、それをシンボライズしたイラストまで描いたが、果たしてちゃんと奥様をなだめることができただろうか?

  • ラ・モッタ男爵の注文で製作された特別なチタリアもやってきた。ジルコのチューブラー・フレームにレース用に202のエンジンを搭載する。

  • こちらはマセラティ200Sの2号車で、1956年にイタリアで納車された。4気筒で扱い易いことから2000ccクラスで活躍した。

  • タラスキのこのボディタイプは、左ハンドル仕様が確認されている。右ハンドル仕様のタラスキは速度記録車として作られたものと思われる。

  • 1923年型のフィアット501Sは、木製のリムや手動の空気ポンプ、古いオイル缶などを備え、当時の雰囲気を演出している。

  • 1932年型のランチア・アルテーナは4気筒1927ccのエンジンを積むおとなしいセダンだったが、それをベースに仕立てたコルサ仕様。

  • イギリスの特異なスポーツカーメーカー、フレーザー・ナッシュはBMW328の進歩的な設計に注目し、自らのブランドで販売した。

  • 1950年代にはイタリア各地で週末になると市街地を閉鎖して、その時だけの公道サーキットが作られてレースが開催された。今回はその復活版で、アヴェッツァーノの中心部を閉鎖してにわかに公道サーキットを作った。それゆえに、このイベントは、チルクーイト・ディ・アヴェッツァーノと名付けられた。参加者も街の人々も、この企画には大いにエキサイトした。

  • この地方の名門ピエトロ・ディ・ロレンツォ家は、いくつもの福祉施設や病院を作り地域に貢献してきた。またモータースポーツの後援者でもあり、今回のイベントではロレンツォ家のガレージが提供され、戦前からの様々なヒストリックカーやレーシングカーのコレクションを右に眺め、美しい女性たちが優雅に寝そべるプールを左に眺めながらパーティーを楽しんだ。

  • 今回は主催者が1955年のMG Aを用意してくれたので、私も同乗の南直樹氏も存分に楽しませてもらった。この美しい丘陵地帯には清楚なロマネスクの聖堂や、大きな劇場を持つローマ遺跡などもあり、我々は風と光と戯れながら走り、ときおり立ち止まっては景色や遺跡を見学した。食事も美味しいし、これほど悦楽的なヒストリックカー・ラリーは他にないだろう。

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