ミッレ・ミリア 2017
2017.5.16-18
第2次大戦後に復活したミッレ・ミリア
戦火によってイタリアの国土も荒廃したが、また戦前のファシスト政権の時代にミッレ・ミリアは中止命令を受けていたにもかかわらず、1947年にミッレ・ミリアは復活したのだから、イタリア人のレースに対する情熱は素晴らしい。この年は、イタリアで戦後一番早くにスポーツカーの生産を始めた新興のチシタリの大活躍が記憶に残る。優勝候補のピエロ・タルフィの乗る本命チシタリア202CMMアエロディナミカは早々にリタイアしてしまったが、病に臥せっていたタッツィオ・ヌヴォラーリがチシタリアの創業者であるピエロ・ドゥジオに口説かれて202SMMで出場したが、ゴール直前のトラブルでリタイアしなければ、トップを走っていたヌヴォラーリが優勝するはずだった。
戦前のミッレ・ミリアではアルファ・ロメオが主役で13回のうち10勝を挙げ、戦後はフェラーリが主役で1957年までの11回のうち8勝を挙げている。また、排気量や車種によりいくつものクラスに分けられて、それぞれのクラス優勝を狙う参加車たちも多かった。だから、750ccクラスや1100ccクラスの優勝者(車)もいて、英雄になることができた。当時からミッレ・ミリアの参加車両は多種多様だったが、現在のミッレ・ミリアでは1927年から1957年までの時代の幅もあるがゆえに、さらに様々なレーシングカーやスポーツカーやツーリングカーが一堂に会し、極彩色の絵巻物が繰り広げられるかのようだ。
ヒストリック・イベント王者の座は健在
今年、ミッレ・ミリアは、1927年から数えて90周年を迎えた。スピードレースであった1957年までのミッレ・ミリアのスピリットは、’80年代にヒストリックカー・ラリーとして復活した今のミッレ・ミリアに、ルールこそ違えど引き継がれていると思われる。今もなお、数あるヒストリックカーモータースポーツのなかでも最も過酷で、ドライバーとメカニックとクルマが三位一体となって調和しなければ、完走もおぼつかない。かつて様々なドラマがあったが、今もなお出場車と同じ数のドラマがあることだろう。そして、何よりもイタリアという風土を走ることで、成り立っている。
私も1996年から2000年までは、かつてピエロ・タルフィの愛車だったチシタリア202CMMで参加し、その後もスタンゲリーニなどで走った。今もなお5月になるとブレシアの街を訪れるが、最初に参加してから20年経た現在でも、ミッレ・ミリアの本質はゆるぎなく継続していると思われる。永遠に続く5月のミッレ・ミリア。永劫回帰のミッレ・ミリアに、いつだって私は時空を超えるような不思議な気分に陥ってしまうのだ。