ランボルギーニ・ミウラSVで「ミニミニ大作戦」の舞台めぐる 

公開 : 2017.07.09 11:10  更新 : 2017.07.09 11:48

衝動が…… ふたたびヒルクライムへ

日が暮れる時間帯で対向車が文字どおり全くないため、再度ヒルクライムに挑戦したい気持ちを抑え難い。そうして、2台のミウラは、一瞬の間にきついヘアピンカーブから飛び出し、追いつ追われつしながら坂道を上っていく。

2台のSVが連なって山間に響かせるエンジン音は魅力に溢れる。冷たい空気で冷却され、エンジンがますますスムーズに回る。クインシー・ジョーンズは、ミウラに乗ったことがないに違いない。


有名な音楽プロデューサーである彼がシートベルトを締め、ランボルギーニの工場のテストドライバーを務め、誰も追いつけないニュージーランド出身のボブ・ウォレスと一緒にボローニャ周辺を高速で走っていれば、もっと元気の出る曲が冒頭のシーンに使われていたかもしれない。

最終的には、イタリアの国境警備隊が、けたたましいサウンドを響かせて走る我々に批判的な態度を示したため、その日の運転を終えることにした。山岳道路の上の方には、部分的に凍った湖がある。

その畔に佇むホテル・アルベルゴ・イタリア。このホテルほど、我々が泊まるのに相応しい宿はあるまい。オーナーであるルカ・ブルノッド氏は、映画のクルーが到着した時にまだ10歳だった。

だが、マフィアの腹黒い親分を演じたラフ・ヴァローネにエアライフルを貸した時の事をまだ鮮明に記憶している。

「彼は俳優としては有名でも、射撃の腕はからっきしで、わたしはひどくがっかりしました」


ブルノッド氏は、そう語る。「ミニが崖から飛び出すための特別な傾斜路をスタント班が製作していたのを覚えています。ミニの残骸は全て谷底に放置されており、近年、それによる環境汚染に苦情が寄せられています」

その夜、我々一行は地元のレストランを借り切って盛大にパーティーを開き、赤ワインとおいしい食事のおかげでミウラと映画の話題が大いに弾んだ。

「学校の映画鑑賞の時間に初めて『ザ・イタリアンジョブ』を見たのは1978年でした」。キッドストンは、そう語る。

「あの頃の僕は、カウンタックが王様で、オレンジ色のP400を見ても、その不思議な魅力についてよくわかっていませんでした」

そして、『Observer’s Book of Automobiles』で手早く調べた結果、クルマの正体を知り、それ以来、ミウラが自分にとっての夢のクルマになったという。

オークション業者のコイズ社で働き始めた時、ぼろぼろのP400が米国からやってきました」

是非とも運転してみたいと思ったのですが、そのクルマを倉庫に届けるよう指示されたのが洗車係だったため、落胆しました。


父が1996年に死んだ時、父の残してくれた財産をはたいてミウラを買いました。最初のドライブは悲惨でした。気に入っていたレストランに妻を連れて行ったのですが、着いた時には、ダッシュボードの下から煙が出ているのを妻が見つけました。

わたしが暗がりの中でAAのスタッフと問題の解決に取り組んでいる間に、妻は、夕食を一人で済ませてしまいました」。

彼は、1998年にステップアップし、特別な履歴のあるSVを買った。「最後に生産されたミウラであり、ルイジ・イノチェンティ氏が息子ジャンフランコさんの21歳の誕生日にプレゼントするために注文したクルマだと考えられています」

特注したのは、クロムメッキのグリルとバンパー、イオタ・スタイルの給油口、そしてチューニングされたエンジンだ。

イノチェンティ・ジュニア氏は、休日のサントロペとの往復を含め、外側をメタリックブラック塗装、インテリアを肌色のレザーで仕上げた自分への夢のようなプレゼントに徹底して乗った後、1974年にカウンタックと交換した

「カウンタックは、ミウラほど速く走りませんでした」。イノチェンティ氏は、そう回想する。

キッドストンは、学生の頃、この山岳道路で自分のアルファ・ロメオ・スパイダーに乗り、カーステレオの音量を上げてOn Days Like Theseを聴きながら、ツインカムエンジンでヘアピンからヘアピンへと駆けめぐった。

「ミウラに乗り、この究極のコースを走ることがわたしの昔からの夢でした。それから12年後。そして、ついに今日、ここに来られたのは奇跡です」

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