回顧録(1) いま知る ランチア・デルタ・インテグラーレと、その歴史
公開 : 2017.07.25 17:40 更新 : 2017.08.11 17:04
「インテグラーレ」と「キールダー」
ロンドンから北へ400kmのイングランド最北・東側にあるノーサンバーランド。その海岸寄りの地域には、ノーサンバーランド公爵の居城アニック・カースルがある。そこからさらに西へ50km。
そこには、イングランド最大の森林地帯が広がる。かつて幾多のWRC名勝負が繰り広げられ、波乱を引き起こした難所、人呼んで「魔の森」キールダー・フォレストだ。
ラリーGB(旧RAC)がテレビ放映の都合や費用節減のために短縮され、今はルートから外れているが、当時は、この魔の森がRACラリーの重要な柱となっていた。
2012年のラリーGBは、ウェールズ内でのみ開催され、参加したクルマは残念ながら32台にとどまった。
これに対して、アレンが25年前に戦っていた戦場では、178台の強豪が第一ステージに挑むため、イングランド北東部にあるノース・ヨークシャーの温泉町ハロゲイトのラディングパークからスタートした。
北上してスコットランド国境を越え、ヨークシャーに南下した後、ウェールズ中部を抜けるコースであった。
ウェールズのペンマハノやクロカイノグ、イングランド北西部のグリズデール、またイングランド中部のダービーの人々は、寒さをものともせず、戸外でラリーを観戦した。また、全国の家庭では、人々がBBCの『ラリーレポート』にチャンネルを合わせた。
まず、スポーツ番組にぴったりのテーマ曲(1982年代に英国を中心に活躍したドイツ出身のニュー・ウェーブバンド、プロパガンダの「デュエル(対決)」)が流れ、曲がフェードアウトすると、キャスターのウィリアム・ウーランドによるその日の見所の解説が始まる。国民にとっては見逃すことのできない一大イベントだった。
当時のラリー・ファンなら、「インテグラーレ」と「キールダー」という2つの言葉に心臓の鼓動が大きくなるだろう。キールダーほど、ランチアが、デルタ、特にデルタ・インテグラーレを通じて自社の高度な技術力を見せつけるのに打ってつけの舞台はなかった。
イタリアの自動車メーカー、ランチア。1998年以降、日本では正規の輸入販売が行われていないため、ラリー以外にはあまりイメージがないかもしれない。
だが、実は、イタリアを代表するハイクオリティ・カー・メーカーなのだ。その証拠に、イタリアでは、ムッソリーニの時代から現在に至るまで、国家元首の公用車にはランチアの最上級車が使われてきた。
現在もランチアの最上級セダン、テージスのストレッチ・リムジンがジョルジォ・ナポリターノ大統領の大統領専用車として、またローマ法王フランシスコ1世の法王御料車(ただし、車名はランチア・ジュビレオ)として使われている。
さらに、ランチアは、モノコックボディ、独立懸架式サスペンション、V型エンジン、5速トランスミッション、風洞実験にもとづくボディデザインなどの最新技術を世界に先駆けて量産車に採用したメーカーとしても有名だ。
ランチアは、同社のラリーカー、デルタHF 4WDとデルタ・インテグラーレにより、1987年から1992年までに通算で46勝、6年連続してマニュファクチャラーズ部門のWRC世界チャンピオンに輝いた。
ドライバーズ部門でも1987-1989年、そして1991年の4回にわたって世界チャンピオンを生み出している。これは、決して偶然ではなかった。