回顧録(1) いま知る ランチア・デルタ・インテグラーレと、その歴史
公開 : 2017.07.25 17:40 更新 : 2017.08.11 17:04
どのようにして、伝説の主役は生まれたか
この事故により、事故から2日後の5月4日、かねてから危険性の指摘されていたグループBの廃止が決まった。そして1987年以降は、グループBよりも制限が多く、その分安全なグループAで選手権を開催することになった。
グループB専用車は、他のカテゴリーよりも量産モデルとの結びつきがはるかに強いため、この決定により深刻な打撃を受けた。これも、WRCによる突然の規定変更により、メーカーが振り回された一例かもしれない。
1985年、1986年とWRCマニュファクチャラーズ・タイトルを2連覇していたプジョーは、グループBの廃止を受け、パリ・ダカなどのラリーレイドに転身した。1982と1984年に優勝したアウディ、そして1979年のフォードは、それぞれ200セダンとシエラをグループAに適合させるために四苦八苦していた。
そんな状況の中、ランチアにだけは、グループAに比較的適した新開発のデルタHF 4WDが手元にあった。こうしてランチアの怒濤の快進撃に幕が切って落とされた。
オリジナルのハッチバック、ランチア・デルタは、当初「小さな高級車」を目指して開発され、競技用自動車のベースカーにすることなど想定していなかったという。
デザインを手がけたのは、直線とエッジの利いたデザインで1970年代に一世を風靡し、5代目トヨタ・カローラ、レクサスGS、スバル・アルシオーネSVX、ダイハツ・ムーヴのデザインも手がけ、2002年には米国自動車殿堂入りしたジョルジェット・ジウジアーロだった。1979年に発表されると、翌1980年にはヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。
グループBの廃止に伴い、グループAのラリー用車両と、その出場権獲得のための市販ホモロゲーション・モデルであるデルタHF 4WDの開発が加速した。
手がけたのは競技用自動車メーカーとして実績のあったアバルトだった。しかしながら、与えられた期間はわずか7カ月。
規定を厳密に解釈すれば、1987年のラリーに参加するためには、1986年5月4日から年末までに5000台生産しなければならない。
しかし、WRCを主催する国際自動車連盟(FIA)の対応は、急な規定変更による過酷なタイムリミットに配慮し、クリスマスまでに3800台程度を生産することで済むことになった。
1987年1月、デルタHF 4WDは、ラリー・モンテカルロで早々と1勝目を上げた。ランチアは、ラリーでの利用を想定していなかったHF 4WDの欠点を克服するため、早くもその直後にデルタHFインテグラーレ8vの開発に着手していた。
8バルブ・インテグラーレ8vは、1987年9月に開催されたフランクフルト・モーターショーで発表され、1988年3月1日にホモロゲーションを完了した。
過密なエンジンルームの犠牲になりがちな冷却システムを改良し、大き目のタイヤを装着できるようホイールアーチを広げた。ターボチャージャーとインタークーラーを大型化することで、最高出力を(167psから)188psまで引き上げることに成功した。
また、フロントのブレーキディスクを大型化し、スプリング、ショックアブゾーバー、マクファーソンストラットの耐久性を高めた。
ラリー仕様車の競争力を維持するため、そのベース車の改良に絶えず取り組んだ結果、1989年5月に最高出力203ps、16バルブのHFインテグラーレ16vが設定された。そして、1991年に最初のエヴォリューション・モデルであり、最後のホモロゲーション・モデルとなったランチア・デルタHFインテグラーレ・エヴォルツィオーネ(「エヴォ1」)の開発が進められた。
だが、同年の末、ワークスとしてのランチアは、ラリーからの撤退を表明する。1991年9月に行われたエヴォ1の初公開からわずか3カ月後のことだった。
1992年のラリー・モンテカルロでデビュー戦を飾ったエヴォ1(愛称「デルトーナ(大きなデルタ)」)の大きな特徴は、ハンドリングを改善するためにインテグラーレ16vよりも2インチ幅広のタイヤを装着できるよう、さらに広がったホイールアーチだ。
また、ボンネットの設計も変更された。さらに、バンパーの形状が変更され、ブレーキが強化され、サスペンションも大幅にアップグレードされている。エヴォ1は、既に極めて完成度の高い車輌だった。
しかし、それから2年後の1993年6月、完成度を極限まで追求した最高出力218psのランチア・デルタHFインテグラーレ・エヴォルツィオーネII(「エヴォ2」)が発表される。