ブガッティ・ヴェイロン試乗記 完ぺきだけれど「魅力に欠ける」 (回顧録10)
公開 : 2017.10.28 10:10 更新 : 2017.10.28 11:14
単純なきっかけと複雑な過程
ブガッティ・ヴェイロンの誕生にいたるプロセスが容易なものではなかったことは、みなさまもすでにご存知のことと思う。
そもそものきっかけは、当時のフォルクスワーゲン・グループ会長=フェルディナント・ピエヒがある日思いついたシンプルなアイディアだった。
彼は1000psの最高出力と100万ユーロの価格、最高速度400km/hオーバーのパフォーマンスを持つクルマを作りたいと考えたのだ。
それは誰もが実現不可能だと思う数字の組み合わせだったが、ピエヒの頭の中ではそうではなかったらしい。
1999年までにスタイリング案とエンジンの試作品が出来上がった。当初のエンジンは18気筒。しかし2000年に行われたリスタイリングとともにパワープラントはフォルクスワーゲン製の4.0ℓV8ユニットを2個合体させた16気筒に変更される。
そして1年後、フォルクスワーゲンはヴェイロンを実際に生産することと、それが1001psのパワーと400km/hオーバーのスピードを持つことを発表した。
ここからが本当の苦難の始まりだった。プロジェクトがスタートするないなや、エンジニアたちはこれほど巨大なパワーと途方もないスピードを公称するクルマを実際に作るのは恐ろしく困難だということに気がついた。
彼らは必死にこのプロジェクトに取り組んだが、1年半が経過しても成果らしい成果はまるで上がらなかった。そのため新生ブガッティの初代責任者=カールハインツ・ノイマン博士が更迭され、開発チーム全体の刷新が図られた。
2003年末、まずヴォルフガング・シュライバー博士が新しいチーフエンジニアに任命された。彼はフォルクスワーゲン/アウディで主にトランスミッションの開発を担当してきたエンジニアで、DSGギアボックスの生みの親でもある。
そしてその数カ月後、元銀行家で、レーシングドライバーとしてもル・マンなどで活躍した経歴を持つトーマス・ブシューが社長に就任した。彼はフォルクスワーゲンの会長、ベルント・ピシェッツリーダーが自らヘッドハンティングしてきた人材である。
この絶妙の人事が功を奏したのか、それからわずか2年間でコンポーネンツの実に95%が変更あるいは新設計され、ヴェイロンはついに現実のものとなった。ピエヒが当初掲げた目標はすべて達成されたのである。