アストンOne-77やフォードGT 生産の立役者、マルチマティック副社長インタビュー
公開 : 2018.03.04 11:40
マルチマティックの誕生
若いラリーの学校選びには驚く。オンタリオの栄光あるウォータールー大学(今ではマルチマティック社が毎年沢山の卒業生を採用している)への入学を反故にしたホルトは、自らを「ナットとボルトの男」だと考え、近くの技術専門学校へ入った。
そこには工作室があり、最初の年から設計図面の授業があった。そこで一生懸命頑張ったホルトは、機械分会の主席となってクラストップで卒業し、夜も猛烈に勉強して当時最新だった有限要素解析法について深い理解を得た。
これによってマッセイ・ファーガソン(トラクターの王様ハリー・ファーガソンは今でも彼の英雄である)で職を得た彼は、大西洋を挟んで有限要素解析を教えて回るのに忙しかったが、会社が突然倒産してしまった。
ホルトはカナダの自動車部品大手マグナに転職し、まもなく創立者トニーの息子であるピーターと出会う。運命の出会いだった。ピーターは自身の会社であるマルチマティックを立ち上げたばかり。ちょうど、自動車メーカーが何から何まで自社で設計する時代から、サプライヤーに設計を委託するようになる時代への転換期だった。
ホルトには夢のような話だ。そして紆余曲折はあったものの、それ以来彼がずっとマルチマティックに在職している根本的な理由はこれなのである。
「技術開発はそれ自体で収益を上げる必要があるとピーターには言ったんです」とホルトは続ける。「製品は作るけど人まねはやめよう、と彼は答えました。われわれのミッションは、望み通りの製品を開発したり解決策を提示することによって顧客の問題を解決することだ。他と同じだったら、単なる量産品メーカーになってしまう。それはわれわれのビジネスではない、とね」