ラスト・ドライブ VWビートル 歴史やヒット作を振り返る

公開 : 2018.08.04 16:10

手ごろな価格 単純な設計

すぐさま、メディアがベルリンと現在のフォルクスワーゲン本拠地のヴォルフスブルクのあいだでKdFワーゲンを試乗した。クルマ雑誌の記者というものは、試乗にお目付役がいっしょだったりするとよく仲間内でブツブツ不平をいうものだが、このときはそれどころの話ではなく、どの記者にもナチスの親衛隊員がついていた。

AUTOCARのE・J・プラットも、このとき試乗したひとりだった。彼は手ごろな価格を評価するいっぽうで、リアエンジンに起因する冬季の暖房能力不足を指摘した。彼も1930年代後半の例にもれず、ときの政権にたいしては見る目が甘くなりがちだった。とはいえ、ブレーキの強力さに言及する際は「ドイツ人の頑固な運転態度も役立っている感もある」とも述べてはいる。

KdFワーゲンには990ライヒスマルクの値がつけられ、週ぎめの貯蓄制度を介して購入することとされた。すなわち、購入資金として毎週5ライヒスマルクを徴収されるのだ。エンジンは修理も容易で、凍結や沸騰の心配がない空冷式とされた。

その後のKdFワーゲンの物語は暗黒の時代を色濃く反映することになる。1939年9月、ヒトラーは宣戦布告とともにポーランド侵攻を開始した。KdF工場のドイツ人労働者は「大西洋の壁」の構築へ配置換えされ、イタリアのファシスト党が2400人の交代要員を送った。

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