元マクラーレン 伝説的デザイナーに独占インタビュー 関心、地上から空へ

公開 : 2018.12.24 17:10

モトクロスレーサーからデザイナーへ

ある意味、スティーブンソンが全身全霊を掛けてデザインに打ち込んでいるというのは驚くべきことだ。ノルウェー人の父とスペイン人の母との間にカサブランカで生を受けた彼には、クルマよりもラクダと馬の違いを見分けるほうが大切だった。父親が自動車ディーラーを始めるために一家はマラガへと居を移し、そこでかなりの期間を過ごした後、イスタンブールでも5~6年暮らしている(彼の父親はボーイングで働いていた)。

高校を卒業するためマドリードへと戻った彼だが、夏休みには父親が経営する自動車ディーラーに併設された修理工場に入り浸っていた。その頃には、息抜きのために彼は常に絵を描くようになっており、その題材は花や動物、そしてクルマだった。一方で、修理工場で初めての愛車だったフィアット124のルックスに手を入れるべく、ホットロッドスタイルの火炎模様をボディサイドまで書き入れたりもしたという。

そして、さらなる変化が訪れた。父親の自動車ディーラーを通して、スティーブンソンはモトクロスレースを楽しむ友人と出会うと、そのままレースに夢中になり、父親の許しを得たうえで1年間をレースに費やしている。すぐに自身の才能に気付いた彼は、スペインのジュニア選手権での勝利を皮切りに、国内のシニア選手権も制している。その結果、ホンダワークスのモトクロスチームから声が掛かり、その後の4年間をスティーブンソンは世界選手権のトップ10ライダーとして過ごした(その名残はいまでもスティーブンソンの逞しい首や肩、腕といった部分に見て取ることができる)。


「22歳の時に父から、今年を最後のシーズンにするようにと言われたんです」とスティーブンソンは思い返す。「父からは、お前は優れたライダーだが、3位や5位、7位といったように大抵トップ10には入るものの1位じゃないと言われました。30歳になるまでにはあちこち骨折したうえに、将来も見通せなくなるかも知れないと思ったので、前へと進む必要がありました。父はどんな分野の教育でもバックアップしてくれると言ってくれましたが、猶予は貰えませんでした。直ぐに将来を決めたくはありませんでしたが、父の言っていることが正しいというのは分かっていたんです」

「カリフォルニアにあるアートセンターのことは何かで読んだことがありました。そこでは自動車デザインを学ぶことができ、わたしはスケッチを描き続けていたんです。レースをしている間もスケッチを止めなかったことが幸いでした。入学を申し込むと無事許可されたんです」

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