伝説のジャガーEタイプ、CUT ディック・プロザーローの生涯
公開 : 2019.06.08 07:50
レース後の分析がカギ
プロザーローは、クラブのレースイベントだけでなく、海外のレースにも果敢に挑戦し、初年度に、Autosport誌量産スポーツカー部門のナショナルチャンピオンシップを手にする。また、その年、スロットルケーブルの故障のためにただ1度リタイアしただけで、9つのレースを走破し、3ℓオーバーのカテゴリー優勝も果たしている。
自分で整備したクルマで出場するプライベーターとして、1位が6回、2位が1回、3位が5回というプロザーローの初年度の成績は群を抜いていた。ドライビングテクニックでも決して同時代のドライバー達に引けを取らなかったが、エンジニアリングの経験とレース後の分析が彼を卓越したドライバーにした。
ウェルズによれば、彼は、英空軍でテスト飛行をしていた時と同じように、レース後にクルマがどう走ったかを事細かく記録していた。「ディックはブレーキパッドの摩耗を計算していた。緻密な男で、自分のやり方にひどくこだわりを持っていた。彼のいうとおりに物事を行うか、あるいはまったく従わないかという両極端な選択しかわれわれにはできなかった」
プロザーローは、パイロットに必要とされる論理的な方法でクルマを開発し、空軍時代のコネを利用して、しばしば付近の空軍基地の滑走路でクルマをテストしていた。最初のCUT7として登録された彼のジャガーのノーズ部分には、淡いブルーのストライプが入れられた。このブルーのストライプ由来は、1947年に手に入れた彼の最初期のレースカーの1台であり、グランスデンロッジでのハンディキャップレースで2位に入賞したお気に入りのタイプ37ブガッティの思い出からであった。