アストンの栄光 DBSスーパーレッジェーラで行く追憶の旅 舞台はグッドウッド
公開 : 2019.06.22 11:50
ニュルブルクリンク2連覇 執念のル・マン初勝利
だが、そもそもアストンでは、このレースへのエントリーすら考えていなかったのだ。
いまでは、アストン マーティンが長くレーシングモデル専業メーカーであったことを知るものは少ないが、1950年代当時も、ル・マン24時間は世界でもっとも重要なレースとして、誰もがここでの勝利を目指す存在であり、1959年のアストンは、まさにそのために万全の準備を整えていた。
当時10回連続でファクトリーチームとして参戦していたものの、結果は2位が2回というものに留まっていたアストンでは、1959年のシーズンは、フェラーリが有力視されていた選手権のタイトルを諦め、すべてをかけてル・マンに挑むことを決意している。そして、ひとりのドライバーを除く全員が、この決断を歓迎していた。
そのひとりこそがスターリング・モスであり、前年、アストン マーティンDBR1を駆ってニュルブルクリンク1000kmに勝利した彼は、この年、2連覇を狙っていたのだ。
連覇を諦めきれなかったモスは、チームマネージャーのジョン・ワイアーにスペアカーを用意してくれるよう相談している。だが、ワイアーはニュルブルクリンクのことは諦めるようモスに良い、さらに、勝利した場合の賞金を約束することで、モスにすべてを賭けてル・マンに挑戦することを同意させたのだ。
一方で、モスの言葉を聞いたワイアーは、1台のレースカーと、主要スタッフ、そしてコ・ドライバーとしてジャック・フェアマンを手配し、彼らは見事にニュルブルクリンクでの勝利を飾った。
こうして、2連覇を果たしたモスは、アストン マーティン初のル・マン制覇にも大きな貢献をしている。
モスに与えられた使命は、アストンを上回る戦闘力を持つと考えられていたフェラーリをかく乱すべく、驚異的なペースでラップを刻むことだった。
つまり、モスがリタイアするということは、フェラーリも同じ運命を辿るということであり、その結果、スローペースで周回していた彼のチームメイトが、見事、ワン・ツーフィニッシュでその年のル・マンを制している。