新旧ベントレー比較試乗 EXP2 vs ベンテイガ 伝統はいまも変わらず 

公開 : 2019.08.04 11:50

大きな誤解 世界最速のトラック?

WOベントレーとは大きく誤解されている人物だ。1922年のツーリスト・トロフィーでは自らが創り出したモデルの1台に乗って、4位を獲得するほどのドライビングスキルを備えてはいたものの、決して偉大なドライバーではなかった。

さらに、初の量産モデルを作り出してから5年も経たないうちに、自らが立ち上げた会社の経営権を失うという、まったくビジネスマンとしては評価出来ない経営者でもあった。ベントレー・モータース創業のはるか以前、彼は第1次世界大戦を戦った戦闘機向けに航空機エンジンを設計しており、当時の大勢を占めていた他のエンジンとは異なり、ベントレーBR1とBR2エンジンは、その高い信頼性によって、無数の命を救うことに成功している。

彼はこのエンジンで、アルミニウム製ピストンとともに、オーバヘッドカムや4バルブヘッド、さらにはツインスパークイグニッションなど、先進的な設計を採用しており、自動車におけるこうした技術を比較的新しいものだとお考えであれば、WOベントレーは1世紀も前に実現していたということを、是非知っておいて頂きたい。

さらに、まさに、これが彼に対する大きな誤解でもあるが、WOベントレーが究極のパフォーマンスモデルを創り出そうとしたことなど決してなかった。彼が創り出そうとしたのは、記録に残るその言葉が示すとおり、「良いクルマ、速いクルマ、そしてクラス最高の1台」だった。


WOベントレーにとっては、洗練性もパワーと同じくらい重要なものであり、だからこそ、効率に優れるツイン・オーバーヘッドカムのレイアウトも、当時は静粛性が足りないとして採用しなかったのだ。

出来る限り最高のクルマを創り出したいという彼の熱意は、他ならぬエットーレ・ブガッティを刺激し、ブガッティはベントレーのモデルのことを「世界最速のトラック」だと揶揄している。

だが、WOベントレーが創り出したモデルは、1924年から1930年までの7年間で、5度もル・マンを制しており、まさに、これこそが彼がもっとも重視していた品質を表すものだった。一般的なクルマの信頼性や組立品質がまるでお話にならず、ときにまったく頼りにならないオンボロでしかなかった時代、ベントレーは、数千マイル走行後も、電球さえ切れることのないクルマを作り出していたのだ。

あるル・マン優勝エンジンを分解した際のレポートにも、その完ぺきさを見て取ることができる。レポートに書かれていたのは、「報告事項無し」というコメントだけだった。

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