フェルディナンド・ピエヒを偲んで 彼のキャリアと生み出されたクルマ 前編
公開 : 2019.08.31 05:50 更新 : 2019.08.31 09:38
アウディ製5気筒ユニットの開発(1976年)
ピエヒの独立時代は非常に短く、1972年にはフォルクスワーゲン傘下のアウディへと入社し、記録的なスピードでキャリアアップを果たす。1975年にはアウディの研究開発部門の役員へと選出され、この地位を利用しながら、アウディをエンジニアリングで優れた会社、というイメージ作りに貢献した。
1976年にアウディは初めての5気筒エンジンを開発し、アウディ100 5Eへと搭載。これ以来アウディ・ブランドを定義づけるような特徴的な技術となり、2019年の今でもアウディRS3やTT RSなどへと受け継がれている。
アウディ・クワトロ(1980年)
1977年になると、ピエヒは世界ラリー選手権(WRC)に参戦するクルマの開発に取り掛かる。パワートレインには、ターボ過給される5気筒エンジンと4輪駆動が選ばれた。アウディは後輪駆動を作っていなかっただけでなく、スウェーデンでテストしていたフォルクスワーゲン・タイプ181・イルティスが、雪原を楽々と走行していたことを目にしたことも理由だった。
アウディ・クワトロは1980年にデビュー。そのまま1980年代のラリー界を制する。ここでも、アウディの今へと続くブランドを構築することになった。「クワトロ」はアウディのストロングポイントのひとつであるとともに、Q8やRS6など最近のモデルには、1980年のクワトロから、そのデザイン要素を受け継いでいる。
アウディV8(1988年)
1988年にアウディは、フラッグシップモデルとなるV8を発表。同年、ピエヒはアウディのCEOへと就任した。V8のエクステリア・デザインが格下モデルへと類似していたこともあり、販売は伸び悩んだものの、BMWやメルセデス・ベンツなど、ラグジュアリーブランドと渡り合うための重要な基盤作りを果たした。
ピエヒは、ビジネスではポルシェとの関係性を大切にしており、1980年代後半に発表されたポルシェ989には、アウディのユニットを進化させた水冷の4.2L V8エンジンが搭載されていた。ポルシェといえば空冷のフラット6を積んだ911だった時代だけに話題になったが、1991年に製造コストが高すぎることを理由に、計画を中止している。
フォルクスワーゲンのCEOへ(1993)
1993年、ピエヒはカール・ハーンの後任として、フォルクスワーゲンのCEOに就任する。だが56歳に始まったキャリアは、順調にリタイアへと辿り着くものではなかった。長年に渡る売上げの伸び悩みと経営不振にあえいでいたフォルクスワーゲンを、早急に立て直す必要に迫られていたのだ。彼はエンジニア出身ではあったが、かなりの部分で冷酷な、指導者としてのスキルも積んでいた。
ピエヒはフォルクスワーゲンのCEOになった直後、コメントを発表している。グループ工場のネットワークを最適化し、すべての製造品質を向上させ、市場セグメントの拡大を目指す、と。そして1990年代のうちに、最も実力のあるエンジニアと経営者を、次々とフォルクスワーゲンに採用。物議を醸しだすこともあった。
後編では、フォルクスワーゲンCEOに就任後のピエヒを振り返りたい。