フェルディナンド・ピエヒを偲んで 彼のキャリアと生み出されたクルマ 後編
公開 : 2019.09.01 05:50 更新 : 2019.09.01 12:06
フォルクスワーゲンのドンともいえたフェルディナンド・ピエヒが、現地時間の2019年8月25日に亡くなりました。享年は82歳でした。AUTOCARでは、自動車業界を牽引し続けた彼を偲び、代表ともいえるモデルを振り返ってみたいと思います。
もくじ
ーブランドの大量買収(1990年代後半)
ーフォルクスワーゲン・フェートン(2002年)
ーブガッティ・ヴェイロン(2005年)
ーポルシェとの争い(2000年代後半)
ーXL1(2013年)
ーフェルディナンド・ピエヒの辞任
ブランドの大量買収(1990年代後半)
フォルクスワーゲンのCEOになったフェルディナンド・ピエヒの指揮のもと、4代目へと生まれ変わったゴルフやW型8気筒エンジンを搭載したパサートなどは、フォルクスワーゲンのイメージを大幅に高めた。だが、フォルクスワーゲン単独としては展開に限りもあった。ピエヒは幅広いセグメントをカバーするには、より大きなグループ企業となる必要性を理解しており、1990年代後半になると、様々なブランドをグループ傘下に収めていく。
1998年以降、ロールス・ロイス、ベントレー、ブガッティ、ランボルギーニを次々と買収。2000年にはスウェーデンのトラックメーカー、スカニアを手中に収める。フォルクスワーゲンはロールス・ロイスをBMWへ売却したものの、ランボルギーニとベントレー、ブガッティはいまもグループ企業の中では最高の輝きを持つブランドだ。そしてそのいずれのブランドも、買収後に大きな成功を収めている点は、注目に値するだろう。
フォルクスワーゲン・フェートン(2002年)
ピエヒはフォルクスワーゲンのラインナップにスーパーカーを追加することはなかったが、メルセデス・ベンツSクラスやBMW7シリーズに対抗できるラグジュアリー・モデルを、フォルクスワーゲンも持つことができると信じていた。そしてフォルクスワーゲン史上最も上級志向モデルとなるフェートンが、2002年に投入される。アウディA8と競合するという事実は、問題視されなかっただけでなく、内部競争は前向きなものだと判断し、むしろ歓迎したという。
フォルクスワーゲンはフェートンを、ドイツ・ドレスデンに準備したガラス張りの工場で製造した。かなり野心的なプロジェクトであり、ピエヒが市場を読み誤った、数少ない例のひとつとなった。特に北米でのフォルクスワーゲン・フェートンの販売は燦々たるもので、2006年には北米を撤退するものの、他地域では2016年まで存続した。
ブガッティ・ヴェイロン(2005年)
1990年代、ピエヒはスーパーカーに強い関心を示していた。1991年にはミドシップのアウディ・スパイダー・クワトロ・コンセプトの開発を監修し、量産に向けてゴーサインが出た、という情報には大きな衝撃があった。アウディは翌年にW12エンジンを搭載したアヴス・コンセプトを発表。フォルクスワーゲンからは1997年にW12コンセプトというスーパーカーが発表され、ノルド・サーキットでの記録をいくつか樹立している。だが、いずれのクルマもショールームへは姿を現すことはなかった。
しかしフォルクスワーゲン・グループはブガッティを傘下に収めたことで、極めて富裕層向けのモデル開発に取り組む機会を得る。白紙の状態から開発が始まり、クワッドターボ・エンジンを搭載した1001psのヴェイロンは、2005年のデビュー当時、最も速く、最もパワフルな量産車となった。それは、ブガッティの過去の偉業を称えるだけでなく、1930年代にピエヒの祖父、ポルシェが開発した、アウトユニオン・グランプリカーを称えることでもあった。