麗しきフェラーリ初ミドシップ・スポーツカー ディーノ206GTに試乗 後編
公開 : 2019.09.07 16:50 更新 : 2021.08.05 08:11
ディーノ:新世代誕生の背景
ディノ誕生の背景には多くの事実が含まれている。販売面での都合だけでなく、息子を失った悲しみ、レースでのプライド、直系の継承者を亡くした創業家の喪失感。アルフレド「ディーノ」フェラーリが1956年に24歳の若さでこの世を去った時、様々なドラマがあったのだ。
エンツォの息子が存命時に設計が初められたV6エンジンは、後にレーシング・ユニットとしてディーノの名前がつけられる。その時エンツォは、コンパクトで廉価版のフェラーリの計画も、具体的ではなかったにしろ立案していた。
恐らくその具現化には、外部資金と自社以外の製造協力が必要だということもわかっていたのだろう。短命に終わった、ライセンス生産されたフェラリーナASA1000というアイデアを否定しなかったことにも、それが現れている。
一方で、ディーノが生まれるきっかけとなったのは、1965年のフォーミュラ2のレギュレーション。500基以上が量産された6気筒以下のエンジン、というホモロゲーション要件に合わせることだった。エンツォは当時、イタリアの若いドライバーの才能を育成する上で、F2というカテゴリーが重要だと考えていたのだ。
V6エンジンの量産化に協力したフィアット
小排気量エンジンの生産自体は、すでに1.5Lのグランプリユニットも存在しており問題はなかったものの、量産が難題となった。当時フェラーリはあくまでもシングルシーターのグランプリマシンと、大排気量の耐久レースマシンの製造に焦点を当てた企業で、量産する場所も人材も確保することはできなかった。
そこで協力を仰いだのがフィアット。当時、同社の経営者だったジャンニ・アニェッリと契約を結び、フランコ・ロッキが設計したV型6気筒4カム・エンジンの生産を依頼する。フィアット・ディーノ・クーペとスパイダーへと搭載するために。バンク角は65度で、ツインカムシリンダーヘッドの空間を確保し、ウェーバー社の40DCNキャブレターを3基並べ、ダイレクト吸気ポートを備えていた。
量産は順調に進み、F2の要件だった500基はすぐに突破。このエンジンを活用したミドシップ・スポーツの計画があることも、公然の秘密となっていた。そのアイデアは、1965年から1967年にかけて登場したコンセプトモデルを見ても明らかだ。1966年のトリノ自動車ショーに姿を見せたディーノ・ベルリネッタは、1年後に発表されたロードカーにとても近い。
最初に登場したのは206スペチアーレで、206 Sスパイダーをベースにしたクルマ。縦置きされたV6エンジンはダミーで、ドライブトレインも備わっていない。しかし、官能的ともいえるグラマラスなエクステリアデザインは既に確立しており、キャビンフォワードの2シーター・ミドシップというレイアウトもディーノに通じる。排気量とシリンダー数を組み合わせた、モデル名の命名ルールも誕生している。