モータースポーツ黎明期 HWM社の一部始終 ストリームラインとクーペ 前編
公開 : 2019.09.08 07:50 更新 : 2020.12.08 10:56
創設者ジョン・ヒースの急逝
一方で1950年代前半、予算はかなり厳しい状態だったはずだが、HWモータース・チームはアルファ・ロメオ製のエンジンを搭載し、6カ国を点々としながら2Fに参戦。7カ月のシーズンに26戦という過密スケジュールだった。
若いスターリング・モスは、HWモータースのF2を運転した初めてのドライバーで、フェラーリやゴルディーニに実力の高さを見せつけた。優勝も何度か決め、全体の成績も悪くはなかった。だが予算で勝る他チームは、ヒースたちには不可能な開発を続け、徐々にHWモータースは2流チームへと落ちていった。
1953年にジョージ・アベカシスはスポーツカーレースへの転向を決めると、それまでのF2のシャシーにはワイドボディとジャガー製のエンジンが搭載される。これが優れたマシンになるとわかり、さらに3台のシングルシーター・レーサーにボディが載せられた。うち2台はジャガー製のエンジンが、1台はキャディラック製のV8エンジンが選ばれた。
1955年になると、HMモータースの技術者、ユーン・ダンによって、軽量でコンパクトなシャシーが設計される。一般化しつつあったディスクブレーキは選ばれず、アルフィン・ドラム・ブレーキが装着されていたものの、アベカシスはシリーズ2の初戦でジャガーDタイプやアストン マーティンDB3Sなどを破る好成績を残す。
ところが1956年、ジョン・ヒースはジャガーエンジンの新しいクルマをドライブ中に、ミッレ・ミリアで悲劇的な事故を起こし、命を落としてしまう。HMモータースへの打撃も大きく、アベカシスはレースから引退しガレージの運営に専念。1957年にはHMモータースのレーシングチームは解散したのだった。
その後のストリームライン・レーサーと、美しく青いクーペの誕生は、後編にて。