5.0LのV8エンジンによるフォーミュラーマシン F5000を振り返る 後編

公開 : 2019.09.14 16:50  更新 : 2020.12.08 10:56

世界各国で独自に展開したF5000

レッドマンは続ける。「レースの流れが変わったのは1974年。パーネリ・ジョーンズ・レーシングが、マリオ・アンドレッティとアル・アンサーを高額で雇った時です。われわれのチームから、チーフメカニックのジム・チャップマンも引き抜いていきました」

「T332sをドライブするマリオ・アンドレッティと一緒に走ったレースは、最高の思い出のひとつです。2年間ともに戦いましたが、1度も接触はしていません。信頼していましたし、わたしのスポーツカーで培った経験が、トランスミッションの扱いでも役に立ったと思います」

F5000カテゴリーのマシン(ローラT332)
F5000カテゴリーのマシン(ローラT332)

ハンサムなボディをまとったシェブロンB24をドライブしたピーター・ゲシンは、英国ブランズハッチのレースで1973年に優勝。シェブロンのチームVDSはレーシングドライバーのテディ・ピレットの活躍で、その年のヨーロッパタイトルも獲得するほか、1974年のタスマン・シリーズで優勝する。1975年にローラT400sにシャシーを交換し、ピレットは2度めのヨーロッパタイトルを奪取。ゲシンはブランズハッチで優勝した。

1976年に英国で開かれたシェル・スポーツ・グループ8インターナショナル・チャンピオンシップは、F1やF2などの参戦も可能だったが、デビッド・パーレイのF2をベースにしたF5000シェブロンB30が強さを見せた。

一方でオーストラリアでは、ホールデン・レプコ製のエンジンと、軽量だがパワーで劣るオーストラリア・レイランドP76のV8エンジンが成功を収めた。ダッジ製のパワフルで重たいV8を搭載したジャッキー・オリバーが駆ったシャドーDN6Bは、1976年のロード・アメリカで勝利する。だが、シボレー製のスモールはF5000の花形エンジンで、人気も高かった。

国際的なグランプリは開かれなかった

「アメリカのプロモーターの力もあり、当初はF5000よりもカンナム(カナディアン・アメリカン・チャレンジカップ)の方が人気が高かったのですが、1974年にはカンナムの人気は終わっていました」 と話すレッドマン。「SCCAはわれわれにオープンホイールのボディを作るように強要し、カンナム・マシンと読んだんです。マーケティング的な手法だったのでしょう」

真実は不明確だが、USAC(アメリカ合衆国自動車クラブ)は、当時のカンナム・マシンに搭載されていた高価なターボエンジンの代わりに、F5000のようなクルマを1974年に導入しようと考えていたのかもしれない。だが、このレース計画は結局表面化することはなかった。

F5000カテゴリーのマシン(カンナム・ローラT333CS)
F5000カテゴリーのマシン(カンナム・ローラT333CS)

「SCCAがF5000を休止させたのは大失敗だったと思います。A.J.フォイトなど、多くのアメリカ人ドライバーが関わっていました。主催者はカンナムに固執していたのです。その2年後に、CART(チャンプカー・ワールド・シリーズ)が始まり、大きな観客を集めました。パワーやパフォーマンス、見た目、比較的安価な開発費など、その規格はF5000にピッタリ合致していたんです」 と話すデヴィッド・ホブス。

ニュージーランドでもF5000は終わりを迎える。1976年になるとオーストラリアとニュージーランドは別開催となり、翌年から1.6Lのフォーミュラ・パシフィック・レースへとスイッチ。オーストラリアでは、ロスマンズの支援でF5000が継続され、インターナショナルシリーズとして1979年まで、ナショナル・ゴールドスター・シリーズとして1981年まで開催された。

ジェームズ・ハントが1978年にオーストラリアで優勝するも、世界の興味はF1へと移っていった。F1レースとも釣り合うほどの人気を誇ったのにも関わらず、なぜか最後まで国際的なグランプリは開かれなかった。F5000の明るい未来は、再び訪れることはなかった。

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