モータースポーツ黎明期 HWM社の一部始終 ストリームラインとクーペ 後編
公開 : 2019.09.08 16:50 更新 : 2020.12.08 10:56
高度な技術でレース用スポーツカーと公道向けのグランドツアラーを製造していたHWM社。しかし存在したのはわずか10年、製造したクルマは19台という限られたものでした。そんな貴重なクルマがドイツで生存していると聞き、フランクフルト郊外へと向かいました。
余りに高価すぎた美しいクーペ
創設者ジョン・ヒースが急逝した後、HMモータースのガレージにはシリーズ2のシャシーが1台分残っており、アベカシスはワンオフのロードカーを制作することに決める。サスペンションはレースカーのまま活かし、レース用のジャガーCタイプのエンジンに、フェイクレス社製のカムを組み、Dタイプのエンジンヘッドを載せた。
さらにアベカシスは美しいクーペボディをデザインし、アストン マーティンのデザイナーでもあった友人のフランク・フィーリーへスケッチを見せる。アベカシスに説得されたフィーリーはスケッチを元に手直しを加え、ボディを具現化する。
その結果、1958年としては極めてセンセーショナルだった、エレガントなグランツーリスモが誕生する。ジャガーXK150は当時デビューから時間を経ており、Eタイプが登場する3年も前の時代。HMモータースのクーペはイタリアのスタイリング・ハウスが生んだ最高のボディだと高い評価を得た。
車内はレザー張りの内装に厚手のカーペットが敷かれ、ダッシュボードには計器が整然と並ぶ。当時としては珍しいパワーウインドウで、ラジオとスピーカーも付いていた。ボンネットはフロントヒンジで、アストン マーティンDB2/4のように、エンジンへのアクセス性も良好。大きなリアハッチとリアガラスはアストン マーティンの流用で、広いラゲッジスペースが大きな燃料タンクの上に広がる。
ジョージ・アベカシスはこの美しいクーペを「ジョージズ・フォリー(愚かなジョージ)」と呼んだ。製造コストがかさみすぎ、顧客向けに量産することすら無理だったためだ。そして、アベカシスはこのクルマへの興味を失い、さほど乗らずに売却されてしまう。
メカニカル音と排気音の心地よいハーモニー
クーペはフランスのコレクターを経て、ヴォルフガング・シュネドラー博士によって1996年にドイツへと持ち込まれた。購入時点の走行距離は2万4000km足らずで、22年間の所有期間で2万2000kmほどを走った。息子とともに、エンスタール・クラシックなど、欧州各地で開かれているラリーイベントに参加しているそうだ。
そんなわけで、HWM社が生み出した初めてのクルマと最後のクルマが、わずか数キロ程度離れた場所に存在しているとは、なんと珍しい偶然だろうか。不思議なことに、フランクフルトから80kmほど離れたハルガルテンの美しい中庭で今回の取材を受けるまで、お互いのことは知らなかったそうだ。
1948年当時、ジョン・ヒースはシトロエンのエンスージャストで、HWMのワークスカラーを明るいシトロエン・ライト15のオプションカラーにあった、明るいメタリックグリーンに決めた。クルマを手に入れたウィレムスはストリームラインのレストア中に近似色を探し、ホンダのクルマに近似色「ハムステッド・グリーン」があることを発見する。
水平に伸びるラインに、ボンネットやボディサイドに無数に穿たれたルーバー、丸みを帯びたテールが与えられたデザインは実際より大きく見える。楕円形のグリルにはフォグライトが納まる。70年前のオリジナルよりも小ぶりな4スポークのステアリングホイールのおかげもあり、ぶどう畑の間に伸びる道では思いのほかコンパクトに感じらた。
いまのところジャガー製のギアボックスを搭載しているが、ウィレムスは1952年のアルファ・ロメオエンジンを搭載したHWMに採用されていた、プリセレクター・トランスミッションに載せ替えたいと考えている。エンジンノイズは美しく、チェーン駆動されるカムのメカニカル音とドライバーの右後ろから聞こえるエグゾーストノートが、心地良いハーモニーだ。