フォード・カプリ3.0S 英国ツーリングカーの英雄、ゴードン・スパイスとの再会 前編
公開 : 2019.09.28 07:50 更新 : 2020.12.08 10:56
MG TFからスタートしたスパイスのキャリア
スパイスのレーサーとしてのキャリアは、冴えないMG TFからスタートした。1962年に5戦出場しているが、5度とも完走できていない。
1963年になり、モーガン・プラス4に乗り換え、ブランズ・ハッチ・サーキットで開催されたBRSCC(ブリティッシュ・レーシング・アンド・スポーツカー・クラブ)ミーティングでポールポジションを獲得し、その後の活躍の片鱗を見せる。だがスパイスは続くグッドウッドでクルマを売却している。
1965年になるとミニでレースを戦うようになるが、1970年にフォーミュラ5000と同時開催されたことをきっかけに、人生を変える電話をもらう。「常に資金不足で、レース引退も考えていた頃でした。ある日、スタン・ロビンソンという人物からチーム・ウィシャートが所有するカプリに乗ってレースに出て欲しいと、丁寧な電話があったんです。もちろんYESと回答し、そこからすべてが始まりました」 その頃を振り返るスパイス。
1973年4月14日、エディンバラ側のイングリストン・サーキットで開かれた初戦で、スパイスは早速2位を獲得。スネッタートン・サーキットで4位、シルバーストーン・サーキットでも2位を獲得し、彼の実力が立証される。最終的にそのシーズンで2勝を挙げた。「カプリのポテンシャルの高さは、すぐにわかりました」
1974年、チーム・ウィシャートのプリマス・ヘミ・クーダの開発がうまく行かず、成績は振るわなかったが、ブランズ・ハッチで1度だけ出場したカプリのレースでは4位を獲得。翌1975年にBSCCに参戦すると、シーズン初戦となったマロリーパーク・サーキットで総合で3位、クラス優勝を挙げた。
8月にF5000のマシンをテスト中にクラッシュし、1975年シーズンだけでなく、シングルシーター・レーサーのキャリアも終了。1975年の戦績としてはそれがベストとなったが、マロリーパークでの結果は、BSCCの2500−3000ccクラスで優勝するには充分な実力を見せることになった。
ストックカーのようなサイド・バイ・サイド
「格上のマシンを破ることができて、とても喜びました。単にレースで活躍できただけでなく、カマロやマスタングなどが相手だったことも、嬉しく感じました。レースで総合優勝するチャンスが出てきたことで、わたしのやる気も一気に高まりましたよ」
1976年の復帰戦、ブランズ・ハッチで開催されたBSCC初戦でスパイスは優勝。そのシーズンに通算4勝を挙げる中の1勝目で、2度目のクラス優勝へと向かっていった。
だが1976年は順調には進まなかった。「当時はまだドライバーのパーソナリティにも寛大な雰囲気で、わたしはトム・ウォーキンショーとよく喧嘩していました。敵対視していたのです」 と語るスパイス。その軋轢は1976年の最終戦、ブランズ・ハッチで露呈する。
「クラス優勝するには、わたしは3位以上でフィニッシュする必要があり、トムは優勝する必要がありました。わたしがポールポジションで、トムは2番手。スタートすると、トムは内側に入ってきて、わたしをコース外へ押し出そうとしたんです。お互いボディサイドで押し合い、結局彼をコース外へ追いやりました。ストックカーレースのようでした」
「マーシャルは怒り、レースのコントロールルームへ電話をかけました。頭の狂ったやつがいる、と。レースが終わるとコントロールルームへ呼び出されました。トムに、僕たちはレース出場のライセンスすら失うかもしれないと、わたしは忠告したんです」
「コントロールルームに入ると、トムは友人だから馬鹿な真似はしていない、と説明してくれました。お互いに嫌ってはいましたが、大きな愛のある素晴らしい言葉でしたね。結局、お互いに警告を受けただけで事なきを得ました」
後半ではフォード・カプリ3.0Sについて詳しく見ていこう。