【Mr.モナコと呼ばれた男】 F1グランプリの知られざる写真家 前編
公開 : 2019.12.14 07:50 更新 : 2020.12.08 10:56
モナコ公国ロイヤルファミリーとの交友
「グランプリが始まって数周たった頃に警察がやってきて、フランス人の友人は連れ出されました。警官は緑色のパスのことを聞いてきたので、正規のルートで来たけれど、パスを配り終えたので間に合せのものを渡された。何の問題もないですよね?と答えました」
「警官は面倒なことに巻き込んで失礼しました。良い1日を。といって去っていきました。悪くないでしょ?」 彼は1962年5月、モナコ・グランプリのために英国を発った。「こんな機会は二度とないだろうね、と話していたんですが、結局2000年過ぎまで、40年以上も毎年モナコへ通うことになりました」
毎年通うことで、ヒューイットは専門家という評価を受け、モナコの人々との交友関係も築いた。それはロイヤル・ファミリーにまで広がり、ヒューイットの最新の著書「モナコ」の前書きを、プリンス・アルベール2世が寄稿するほど。
モナコの有名なバー、ロージーズバーでも特別扱いをされている。レース中にカメラを持って入店が許可された唯一の人物なのだ。滞在するホテルでも、サーキットのスタート・フィニッシュラインのすぐ目の前、21号室が定宿となっていた。
「ある年、その部屋を予約していた家族が訪ねてきました。2週間予約したらしいのですが、1周間が経ったところで部屋を変更されたといって・・」 レースが始まると、彼は21号室で毎晩白黒フィルムを現像し、ベッドの上に乾燥用のワイヤーを張って吊るした。
捨てた入賞しなかったマシンのフィルム
低い光に照らされた究極の1枚は、1984年、エリオ・デ・アンジェリスがドライブするロータス95Tが、ヒューイットの手をかすめるように有名な丘を駆け抜けるシーンだろう。見事に捉えられたその瞬間は、彼の書斎を見下ろすように飾られている。
当時はフィルムだったから、シャッターを切るのは1チャンスのみ。大容量のメモリーカードなどない。「わたしのカメラ、ブロニカのフィルムは1ロール14コマでした。厳選した瞬間を狙って撮影しなければなりません。今のように連続してバンバンとシャッターは切れませんからね」
「フィルムも高価で、あまり撮影に熱くなり過ぎるわけにもきません。当時でも120や220フィルムは高嶺の花で、わたしは35mmを使っていました。バケツを持って会場を歩いて、冷蔵庫で保管していましたよ」
「(撮影したマシンが)上位3位までに入らなかったネガフィルムは、捨てていました。それは沢山」 彼はしばらく間をおいた。「なんて馬鹿なことをしたんでしょうね」
彼は特にレース全体の様子を撮影することが得意だったらしい。古い鉄道の駅やホテル、カジノが一緒に写る。クルマは情景の一部だ。「多くはサーキットの横に立っているだけでしたが、最高の背景を一緒に納めることは難題ではありませんでした。何しろモナコですから」
続きは後編にて。