【Mr.モナコと呼ばれた男】 F1グランプリの知られざる写真家 後編
公開 : 2019.12.14 16:50 更新 : 2020.12.08 10:56
グラハム・ヒルとの交流
「ブランズ・ハッチ・サーキットの第1コーナーは死ぬほど危険でしたね。ジム・クラークはそのコーナーにいるわたしをみて、何歳か聞いてきたんです。自分は照れながら19歳だと答えると、そこにいたら20歳の誕生日は祝えないぞ、と忠告してくれましたよ」
ヒューイットはグラハム・ヒルとも親交があり、ヒルお気に入りの写真も撮影している。トンネルの出口側から、街路灯が弧を描くようにカーブしているシーンなど。これはジョン・サーティースの好きなアングルでもある。強い雨の中、旅行カバンを持って1人ピットレーンを歩くヒルも良い写真だ。
「ピットレーンの写真を撮影したあと、脇に隠れて彼と話をしました。自身の本にその写真を使いたかったらしいのです。発売日の前日に自宅にも本が届いたのですが、表紙の内側には彼のメモが残されていました」
「ミハエルへ、グラハムより。ミハエル・ヒューイットではなく、グラハム・ヒルでもありません。友人以外でこうは書きませんよね?素晴らしい人で、これまで何度も助けてもらいました」 1963年、BRM P57をドライブしたグラハム・ヒルは、モナコ・グランプリで初優勝を果たす。その後モナコでは5回も表彰台のトップに立っている。
ヒューイット自身は、ニュージーランドへ住む母へ写真を送りたいという、ブルース・マクラーレンに協力していたという。
魂を込めて撮影してきた
「彼のお嬢さんと、数年前にグッドウッドで会いました。ブルースがなくなった時、彼女は3歳で、わたしが送った写真にとても感謝していました。すべてを保管してくれていたんです」
「彼女はわたしと会えたことを喜んでくれて、オリジナルのマクラーレンのバッジを1ついただきました。お金では買えない代物です」
「ブルースは一度、モナコ・グランプリで、自分のシネ・カメラ(動画フィルムカメラ)でレースシーンを撮影して欲しいと話してきたこともありました。わたしは忙しくて、仲間にカメラの使用方法を教えて欲しいと伝えたのでした」
「自分はとても幸運でした。写真のためなら何でもしてきました。でも、英国では誰もわたしのことは知らないでしょう。モナコでは何年も掛けて、名前を知ってもらえるようになりました。モナコの人と交流を持つのが好きだったんです」
ある年、ヒューイットはブランズ・ハッチで撮影許可証を発行できなかった時があったらしい。そこでプレスセンターの外にいた、BBCでコメンテーターも務めるジャーナリスト、バリー・ギルを訪ねた。
「彼はプレスセンターの担当者へ手紙を書いてくれました。ミハエル・ヒューイットへパスを渡してください。彼はサーキットでなくてはならない写真家です。と封筒の後ろに書いてくれたんです」
「写真には魂を込めてきましたからね。1枚1枚に良い魂を込めてきたんです」