【たった1度の優勝で散った】フォーミュラ1のレーサーまとめ 前編
公開 : 2019.12.21 07:50 更新 : 2021.07.12 18:32
リッチー・ギンサー(1965年メキシコGP)
タイミングとチーム次第では、F1でも充分に速いレーサーだったはずのリッチー・ギンサー。実際は自身が望まなかったであろう、責任の重い役割を果たすことになる。チームにとって完璧な「ナンバー2ドライバー」を命じられたのだった。
才能にも恵まれ、メカの理解力も高く、強い倫理観も備えていたギンサー。それを見抜かれ、1965年のメキシコ・グランプリではホンダのマシンをドライブし、自身としても、チーム・ホンダとしても初めての優勝を挙げる。しかし前年まで所属していたフェラーリやBRMでも、「ナンバー2」としてトップ争いに絡んできた。
アメリカ・カリフォルニア生まれのギンサーは、1967年にインディ500の出場を一度は狙うも、引退を決意する。フュエールラインの破損で、ギンサー自らがガソリン漬けになるという恐ろしい経験は、ドライバーから退く決意をしても当然の出来事だった。
ドライバー引退後はレースチームの運営やマシン開発に関わり、ポルシェやカンナムでレースで一時は復帰するものの、最終的にはメキシコに移り質素な暮らしを選択した。
マニアな小ネタ
リッチー・ギンサーは、ジェームズ・ガーナー演じるピート・アロンのチームメイト役「ジョン・ホガース」として映画「グランプリ」にも出演している。
ヨッヘン・マス(1975年スペインGP)
イケメンはF1では優勝できないというジンクスがあったが、それを覆したのが縮れ毛がトレードマークだったヨッヘン・マス。とはいっても、彼の才能のすべてを投じたF1では105回のスタートを切っているものの、優勝できたのは1回のみだった。
アルファロメオ・ジュリアGTでのヒルクライムでモータースポーツのキャリアが始まったヨッヘン。フォード・カプリRS2600でヨーロッパ・ツーリングカー選手権に出場後は、F-2にも参戦。1974年からはチーム・サーティースで苦闘のF1キャリアをスタートさせている。
1年後、マクラーレンへ移籍し、エマーソン・フィッティパルディの2番手としてドライバーを務める。フランス、ポール・リカール・サーキットと、アメリカ、ワトキンズ・グレン・サーキットでの走りは印象深い。
ヨッヘンがF1で初優勝を飾るのは、1975年のスペイン・グランプリ。バルセロナのモンジュイック通りを会場にした市街地コースは、安全性のずさんさから主催者にはレーススタート前から批判が寄せられていた。
実際、途中に観客5名を死亡させるクラッシュが発生し、29周でレースは中断。その時点で、ジャッキー・イクスを抑えてトップで走行していたのがヨッヘン・マスだった。
マニアな小ネタ
1976年のドイツ・グランプリでは、不運にも優勝を逃している。スリックタイヤでギャンブルに出るも、優勝したのはジェームズ・ハントだった。
続く5名は後編にて