【奥が深いタミヤの世界】驚異のこだわり 情熱は衰えず 前編
公開 : 2019.12.21 11:50
素晴らしき出会い
当初、タミヤの製品は日本とアジア市場だけで販売されていたが、その状況にもすぐに変化がもたらされている。
当時英国では、おもちゃ卸のリチャード・コーンスタム社(RIKOと言えば思い出すかたも多いだろう)のデビッド・ビンガーが、欧州では販売されていない新たな商品を探していた。
1966年、米国出張中に輸入されたタミヤの製品を見つけた彼は日本へと向かい、若き日の田宮俊作と、その父でありタミヤ創業者の義雄と初めて顔を合わしている。
これが、タミヤとビンガーの長きにわたる成功物語の始まりであり、タミヤの英国と欧州市場進出のきっかけとなる出来事だった。
現在タミヤ製品の輸入元となっているホビー・カンパニー社のトップを務めるのは、デビッドの息子、ピートだ。
後年、田宮俊作は彼に、「デビッドは熱心に英国進出を進めてくれましたが当初は懐疑的でした。ですが、デビッドの勇気と先見の明が、われわれに欧州市場進出の機会を与え、タミヤを世界的なブランドにしてくれたのです」と書いた手紙を送っている。
ビンガーはこの話を受けて、「父が欧州全域にまたがるネットワークを構築するとともに管理していました。さらに、すぐにセールスの拡大にはモデルラインナップの拡充が必要だということ証明したのです」と、語っている。
伝説のプラモデル
モデルラインナップが増えるにつれ、タミヤのプラモデルはその品質の高さと、病的なまでの細部へのこだわりで知られるようになっていった。
F1マシンのモデル化に大きな可能性があると感じたデビット・ビンガーは、グリン・ピアソンを英国に拠点を持つF1チームに派遣し、彼らのグランプリカーを商品化する権利を獲得している。
その結果誕生したのが、ホンダRA273やロータス49、ロータス72といった伝説的なプラモデルたちだ。
「ロータス72の大ヒットによって、タミヤの名は英国中で知られるようになりました」と、ビンガーは言う。
ビンガーは田宮俊作のことを、完ぺきさと細部にこだわる「究極の記録魔」だと評している。
「他のスタッフはコストを気にしていましたが、彼は完ぺきさだけを求めていました。それは今でも変わりません。つねに自ら興味を持った対象の情報を集め、決して写真や伝聞だけでは満足しないのです。かつては写真撮影と研究のために世界中を飛び回っていました」
F1がいまよりも牧歌的だった時代、エンジンは交換するものではなく修理するものだったために、溶接補修されたオイルパンをモデルにしたタミヤのプラモデルでは、その溶接線まで再現されていた。