【フェラーリを夢見たアポロ計画】 アポロ3500GT コンバーチブル 後編

公開 : 2020.01.25 16:50  更新 : 2020.12.08 18:45

賞賛を集めるも短命に終わったアポロ

パサデナへ送られたボディは24台分で、販売されたのは14台。残りの6台は会社の工場長が自ら組み立て、4台分はロサンゼルスの港に放置され、オークションで1980年に売却された。

アポロは、製造資金の不足という問題を乗り越えることができれば、成功という結果を生み出せたのかもしれない。顧客は少なからず存在していた。もっとも、大西洋とアメリカ大陸を越えてボディを輸入するビジネスモデルが、成立したのか疑問ではあるけれど。

アポロ3500GT コンバーチブル
アポロ3500GT コンバーチブル

ちなみに英国にも、ゴードン・キーブルというスポーツカーメーカーが存在した。既存コンポーネントを組合せただけではない魅力的なクルマとして、注目を集めた存在だったが、そちらも1967年に終りを迎えている。

「特にロサンゼルスでは、アポロは称賛を集めていました。製造した7割のクルマはハリウッドに売られました。1960年代の自動車文化は、運転したいクルマに乗るという風潮があり、大きな影響を持っていました。アポロは高級そうに見えます。運転しやすく、日常的に使えるモデルでした」

しっかりとした審美眼を備えた、有能な人物によって設計されたアポロ。だが、想像以上に短い命だった。

ブラウンは付け加える。「メーターの文字をイタリア語のままにしたのは、自分のアイディアです。スポーツカーにはグラブハンドルが必要だと、常に考えてもいました。速いクルマの印だと思うんです」

番外編:失敗したブラウンのアポロ計画

「自分のクルマを手に入れたのは14才の時。1935年製のシボレーでした。その頃、地元で目にしたジャガーXK120が宇宙船のように見えました。それ以来スポーツカーに夢中になり、17才で自作して販売しました」 笑顔で語るブラウン。

「そのお金でヨーロッパへ行きました。英国で最初に向かったのはロータス社。驚きました。オフィスとショールームがあり、小さな工場でシンプルなクルマを製造していました。両親がアメリカに建てたガレージとワークショップの方が、ロータスの工場より大きかったんです」

アポロ3500GT製造の様子
アポロ3500GT製造の様子

「それからイタリアへ行き、フォーミュラ・ジュニアのレースを観戦。アメリカでも人気が出ると思いました。アメリカに戻りフォーミュラ・ジュニアを作りましたが、ビュイック製のオールアルミ・エンジンを見て、グランドツアラーへと考えが変わったのです」

「1960年のモナコ・グランプリで、(インターメカニカ社の)フランク・ライスナーに会いました。その時、ピニンファリーナ社からプロトタイプを作るための5万ドル(540万円)の見積もりを持っていました。しかしフランクが提示した額ははるかに安かったのです。早速妻と一緒にトリノへ向かいましたよ」

「アポロのフレーム設計を進めたのはわたし。ボディのデザインは高校の同級生、ロン・ブレシアです。ロサンゼルスの芸術学校を卒業したばかりで、一緒にいた時期も長かったからか、デザインの意見も合ったんです」

「もう1人の高校の友人、ニュートン・デイビスはビジネスを立ち上げたいと話していて、資金も持っていました。そこでビュイック製エンジンを手に入れ、ブレシアが4分の1のスケールモデルを仕上げました」

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