【60年ぶりに姿を現したクーペ】タルボT26グランドスポーツ チェコで復活 前編
公開 : 2020.02.22 07:20 更新 : 2020.12.08 10:55
カリフォルニアで救われたグランドスポーツ
完成したグランドスポーツは、ファヨールの元へ1948年10月8日に納車される。彼のガレージには、フィゴーニがボディを担当したタルボ・レコルドが既にあり、そこへ加わるかたちだった。
見事なボディをまとったグランドスポーツだったが、フランスで当時人気だったコンクールイベントには姿を見せなかった。ファヨールは少しクルマに疲れていたようだ。ジッパー・ビジネスの利益が急激に悪化し、請求書の支払いが難しかった。
1年後、クルマはコーチビルダーのフィゴーニの元へ返ってくる。1949年のパリ・サロンへ展示されると、こちらも優雅なドライエ175コンバーチブルと共に大きな話題を巻き起こした。
タルボの歴史に詳しいピーター・ラーセンによれば、フィゴーニ・グランドスポーツが、1950年代にカリフォルニアへ持ち込まれるまでの詳細はわからないままだという。だが、グランドスポーツは、ロジャー・バーロウによってアメリカに輸入されたと考えられている。
彼はハリウッドを拠点にする輸入車の専門店、インターナショナル・モータース社の人間だった。本来はオーナーに渡るはずだったのだが、実際それから先の命は、リンドレー・ロックの手に委ねられた。
UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の技術者で、フランス語も流暢に話せたリンドレー。フランスのコーチビルド自動車への情熱も高かった。
1950年から1960年にかけて、リンドレーは中古車情報を調べて足を運び、廃車置場に置かれていたタルボを救っていた。多くは安価に購入し、ボディの良くないものはロサンゼルスの倉庫へ保管していた。
一度は諦めかけたタルボ・ラーゴ
フランスのコーチビルダーが生み出した美しいボディたちは、この場所で2001年にリンドレーが亡くなるまでひっそり残されていた。そのことが明らかとなったのは、彼の死後、妻のベディが倉庫の整理を始めたことがきっかけだ。
一方でチェコ共和国では、フランティシェク・クデラと彼の息子、ロバートがグランドスポーツの復元を長い間夢見ていた。彼らの自動車への熱い思いは、クデラが初めて手に入れた、戦前の998cc 2気筒エンジンを積んだエアロへとさかのぼる。
「父は50年以上もクルマを収集しています。メルセデス・ベンツ500Kと同時に、グランドスポーツのスタイリングをとても気に入っていました。家業から引退したことをきっかけに、ワークショップを作り、タルボ・ラーゴの復元車両を探し始めたのです」 とロバートが話す。
そんな中、2010年にクラシック・コレクションのオークション情報を知る。その中に含まれていたのが、ジャックソーチク社のボディをまとった、シャシー番号110109のグランドスポーツ。一度は復元の希望を抱いたそうだ。
「その短いシャシーは極めて珍しいのです。述べ29台しか作られていません。入札しにレトロモービルへ足を運びましたが、悪夢に終わりました」 と振り返るロバート。
「クルマは酷い状態だったのにも関わらず、入札は荒れました。価格は上限を超え、最終的にスロバキアの人物が、信じられない価格で落札しました。わたしたちの夢は終わったかのように感じましたよ」