【超音速と呼ばれたGT】イタリアボディのジャガーXK120スーパーソニック 前編

公開 : 2020.03.21 07:50  更新 : 2020.12.08 10:55

美しいサヴォンヌッツィのフォルム

ボディデザインのために、コンレロは友人だったサヴォンヌッツィに声を掛けた。彼はシチタリア社を離職したばかりで、いくつかのスケールモデルを制作。これまでにも最高速記録マシンなどを手掛けていたサヴォンヌッツィは、同様にトリノ工科大学で風洞実験を行った。

実際のボディはカロッツェリア・ギア社がトリノのワークショップで製造。完成したボディには、スーパーソニック・ラインと呼ばれる、多くの特徴を備えている。

ジャガーXK120スーパーソニック(1953年)
ジャガーXK120スーパーソニック(1953年)

引き伸ばされたフロントノーズに、低いルーフラインから流れるように伸びるテールライン。ボディサイドの彫刻的なモールディングが特徴だ。

テールライトは欧米で流行していた、ジェット飛行機を想起するような造形が見て取れる。だがプッシュボタン式のドアハンドルや、ルーフラインに装用に造形されたアクリル樹脂製トップなど、最新のディテールも備えていた。

白いボディをまとったコンレロ・スーパーソニック。1953年のトリノ・サロンで発表された。

その後ハブキャップが外され、ジュネーブのナンバープレートが付けられ、ミッレ・ミリアでは排気量2Lのスポーツクラスで出走。453のゼッケンで、1953年4月26日4時53分に、イタリア・ブレシアをスタートしている。

ブレシアの町を出てから、センセーショナルなコンレロ・スーパーソニックを目撃した人は多くなかった。途中、ロバート・フェルマンとコドライバーのGヴイユは大事故を起こし、クルマは出火。ミッレ・ミリアのゴール、ローマへはたどり着かなかったのだ。

フィアット8Vのエンジンを積んだ2代目

アルミニウム製のボディは焼け焦げていたが、シャシーは何とか生き残った。フェルマンはコンレロ・スーパーソニックの修復を依頼し、今度はジョバンニ・ミケロッティがデザイン。取り外せるアクリル製のハードトップ付きのボディをまとった。

高性能なツインプラグのエンジンヘッドも獲得するものの、1954年のミッレ・ミリアでも結果は振るわず。その後ハードトップは外され、コンレロ・スーパーソニックはヒルクライムレースに参加。現在でもミッレ・ミリアの常連モデルになっている。

ジャガーXK120スーパーソニック(1953年)
ジャガーXK120スーパーソニック(1953年)

そんなコンレロ・スーパーソニックだが、興奮を沸き立たせるボディにギア社は注目。デザインを活かし、フィアット8Vの2.0Lエンジンを搭載した特注のクーペを継続して制作することを決定する。

1954年10月のパリ・サロンでは、2代目のスーパーソニックが最も美しいクルマとして選出される。サヴォンヌッツィはフィアットの航空機部門で新たなキャリアをスタートしていたが、ギア社でもテクニカル・ディレクターに就任。新しいスーパーソニックを牽引する重要な役割を果たした。

2代目として初めてのクルマは、シャシーナンバー106.000035。注文したのはポール・ファラゴで、アメリカへ運ばれた。現地でも美しさは話題となり、多くの自動車メディアに取り上げられた。

当時、クライスラーでチーフデザイナーを努めていたヴァージル・エクスナーは、スーパーソニックの写真を見て感銘。エクスナーは、クライスラーに貸してもらえるよう手配した。余談だが、その後サヴォンヌッツィが担当した、デ・ソト・アドベンチャーIIというショーカー誕生へとつながる。

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