【15台で始まったDBシリーズ】アストン マーティン2リッター・スポーツ 前編

公開 : 2020.04.05 16:50  更新 : 2022.08.08 07:49

戦時中に開発が始まった4気筒エンジン

ラゴンダの買収では、ほぼ量産体制が整っていたW.O.ベントレー設計の、2.6サルーンも得られた。一方、アストン マーティンの将来は未確定なまま。ブランドで最も価値があったのは、エンジニアのクロード・ヒルだったといっていい。

クロード・ヒルは、その頃2740mmのホイールベースを持つ、角パイプで組んだリジッド・シャシーの設計を終えていた。戦前に彼が手掛けたサルーン、アトム・プロトタイプを元に、7インチのトレーリングリンク・フロントサスペンションを追加していた。

アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)
アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)

リアサスペンションは、コイルスプリングを備えたリジットアクスル。ド・ディオンアクスルを採用した、DBSの基礎となったといえる。

優れたエンジニアのヒルが、2.0Lエンジンの開発をスタートしたのは1944年。直列4気筒というレイアウトは、アストン マーティンの伝統に準じていたが、既にオーバーヘッド・カムを採用していた中でのプッシュロッド式は、逆行と思える。

しかし戦時下の1944年、縮小財政の中では適切な選択だった。シンプルさが重要視され、低品質な燃料は圧縮比を抑制し、最高出力にも限りがあった。1 1/2インチのSUツインキャブを搭載した1970ccから得た91psの最高出力は、かなりの効率だといえる。

ハイマウントのカムシャフトは鋳鉄製ブロックの後ろ側から、チェーンで駆動。クランクにはメインベアリングが5個配され、垂直に搭載された吸気バルブと、20度の角度の付いた排気バルブによって気流を生み出し、燃焼効率の向上を狙っている。

1台は日本にも輸出されていた

ヒルが生み出した4気筒エンジンは、ホイールベースの短いサイクルフェンダーをまとった2リッター・スポーツのプロトタイプに搭載。スパ・スペシャルとして、1948年のベルギー24時間レースで優勝した。ドライバーはセント・ジョンラ・ホースフォールとレスリー・ジョンソンだ。

一方で、同時期のジャガーXK120が搭載した6気筒ツインカムエンジンと比べると、価格も高かった4気筒の2リッター・スポーツは、ショールームでの訴求力に乏しかった。

アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)
アストン マーティン2リッター・スポーツ「DB1」(1948年)

その差が、ラゴンダ製の直列6気筒エンジンを搭載した、DB2誕生へとつながる。1950年以降の、いまに通じるアストン マーティンの幕開けだといっていい。

ブラウンは、ヒルが設計したプッシュロッド式の6気筒を却下し、W.O.ベントレーが設計したユニットを支持。ヒルにとっても、このDB2は新たな門出のきっかけとなっている。

話を4気筒の2リッター・スポーツ、DB1へ戻そう。最終的に15台が製造されたが、現在確認されているのは9台。登録番号によって、識別できる。

THX 231は、DB1のパンフレットにも載ったクルマで、最初に販売されている。UMD 123は、4番目に作られたDB1で、1949年のル・マンに参戦。TME 474は、1948年のショーに展示されたクルマだ。

KOH 120は1949年のロンドン・モーターショーに出展された車両で、唯一、折り畳み式のフロントガラスを備える。2番目に製造されたDB1はアイルランドへ輸出された。

3番目に完成したTML 278は、スコットランドでレストアが必要な状態で、2013年に発見された。ほかにも、DB1は日本やベルギー、スイスへと輸出されている。

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