【15台で始まったDBシリーズ】アストン マーティン2リッター・スポーツ 前編
公開 : 2020.04.05 16:50 更新 : 2022.08.08 07:49
毎月フェルサムで受けていた定期点検
ロイヤル・オートモービル・クラブ(RAC)のチェアマンを務めていたジョン・キャヴェンディッシュがオーダーしなければ、DB1は12台で終わっていただろう。彼は、オープンボディのアストン マーティンを望んでいた。当時はまだ、DB2のオープンボディはなかった。
しかしアストン マーティンは、DB1の生産は終了したことをキャヴェンディッシュに伝える。コストに見合う、さらに2台分の顧客を探せば、製造しても良いと答えた。
そうしてシャシー番号13と14、15のDB1は、1950年の春に誕生。ナンバーはOPD 51とOPD 52、53が付けられた。最後の1台がキャヴェンディッシュに届けられたのは、6月だった。
OPD 51はキャンベル・ゴールディング博士が妻のために購入。彼女は18年間大切に乗ったという。「ゴールディング博士は、祖父の友人だったのです」 と話すのは、現オーナーのアラン・サウスワード。
「祖父と父は、定期的に博士の家に集まっていました。父のロビンは、そのクルマが大好きで、いつも婦人に洗車を申し出ていたそうです」
「ゴールディング婦人は、定期的に点検のためにDB1をフェルサムへ送っていました。特に不具合もなく、アストン マーティンDB1は博士の婦人の元へ戻っていたようですね」 これは毎月恒例のできごとだったらしい。
「父はフェルサムに拠点がある会社でエンジニアを始めると、定期点検でDB1をアストン マーティンまで届けることを申し出ました。DB1と強い絆を感じた父は、ゴールディング博士の婦人に、仮にクルマを手放すことがあれば初めに声をかけて欲しいと、お願いしたのです」
続きは後編にて。