【車名を言える?】フォルクスワーゲン・ミュージアム 21台の「忘れられたクルマ」たち
公開 : 2020.05.07 11:50
1973年 T2bオープンエア
ボディ剛性なんか気にしない。フォルクスワーゲンは1973年、タイプ2バスのルーフを切り取ってコンバーチブルを作ってしまった。このオープンエアと呼ばれるT2型(第2世代)タイプ2はしかし、残念ながらというか幸いにというか、一般に販売されることはなかった。代わりにドイツのTVショー「アイン・プラッツ・アン・デア・ゾンネ」(「陽の当たる場所」という意味)で使われた。
1975年 キッコ
キッコは、コンパクトでありながら室内の広いシティカーとしてフォルクスワーゲンが考え出したクルマだった。全長は3.3mほどだが、車内には4人が比較的快適に乗ることができる。そんな一見すると不可能に思えることを、1970年代当時のフォルクスワーゲンが開発した技術を使って実現したクルマだ。
エンジンは排気量0.9リッターの直列3気筒で、最高出力40psを発生。基本的に当時の水冷直列4気筒から1気筒を切り落としたものだ。これをフロントに横置きし、前輪を駆動することで、設計者たちはエンジン・コンパートメントのスペースを小さく抑えることができた。キッコはプロトタイプが製作されただけだったが、後にフォルクスワーゲンから登場するシティカーに影響を与えることになる
1976年 ロボモビル
この流線型のファイバーグラス製ボディを持つクルマは、1949年にビートルとして西ドイツで生まれた。そのまま西側に留まっている間は、平凡な大衆車として平穏無事なクルマ人生を送っていたに違いない。しかし、東ドイツに渡り、エーベルハルト・シャルノヴスキーとブルク・ギービヘンシュタインという2人のエンスージアストの手によって、数奇なクルマに生まれ変わることになる。
1976年、シャルノヴスキーとギービヘンシュタインはビートルのボディを取り外し、そのプラットフォームと彼らが手に入れられるコンポーネントや材料を使って、世界に1台だけのスポーツカーを作ろうと考えた。ウインドシールドとワイパー、シートは東ドイツ製のヴァルトブルク353から、そして灯火類はトラバント601からの流用だ。最高出力35psを発生するエンジンは、ビートルの1.2リッター水平対向4気筒がそのまま搭載されている。
1977年 パサートGTI
1975年に初代ゴルフが登場してから、フォルクスワーゲンがGTIのバッジを付けた車種を拡大しようと考えるまで、長い時間はかからなかった。その2年後、同社はゴルフGTIの最高出力110psを発生する1.6リッター直列4気筒エンジンをパサートに搭載した実験車両を製作する。ゴルフに比べると重量は重くなったものの、それでもパサートGTIのプロトタイプはかなりの性能を発揮した。
サスペンションに改良が施されたことで、ハンドリングも向上した。今ではお馴染みとなった赤いアクセントもボディに加えられている。エンジニアたちは公道で広範囲にわたるテストを繰り返し、パサートGTIの仕上がりに満足していたが、フォルクスワーゲンの役員たちはこのプロジェクトを終了させた。パサートはファミリーカーであり、ホットロッドではないというのが彼らの主張だった。しかし、最終的に110psのエンジンは、快適性を念頭に置いて開発された最上位モデルのGLIに搭載された。