【ラリーをマキシマム・アタック】WRCグループBを戦ったマルク・アレン 前編
公開 : 2020.05.31 08:50 更新 : 2022.11.01 08:57
177位からの壮絶な巻き返し
「18才になると、1969年のフィンランド・ジュニアカップで優勝しました。その翌年も。わたしがスターとして見上げていたドライバーたちと、同じイベントでの戦いです。とても素晴らしい体験でした」
アレンがラリーを始めたのは、ルノー8ゴルディーニ。サンビーム900インプが、印象深かったという。
1968年のヨーロッパ・ラリーチャンピオン、トイヴォネンが、彼がアマチュアからプロへステップアップするのに貢献してくれた。「わたしはトイヴォネンからサンビームを購入したんです。わたしにも関心を寄せてくれました」
「彼はハードな人物でした。わかりますよね。とてもタフで、多くを学びました」 アレンが振り返る。彼の風貌は、ずっと昔に伝説的なラリードライバーになって以来、あまり変わらない。
1970年の1000湖ラリーでは、グループ1のオペル・カデットを借りて出場。だが、彼のラリー人生の中でも最大のクラッシュを起こし、リタイアしている。
アレンはフィンランドで、ボルボ販売代理店のドライバーとしての座を獲得する。マルボロ・レーシングチーム・フィンランドのスポンサーを背負った。
1973年、アレンは一躍脚光を浴びることになる。デイビッド・サットンのフォード・エスコートをドライブし、リンディスファーン・ラリーへ出場。英国のRACラリーでは、モータークラフトのRS1600を駆った。
RACラリー会場のサットン・パーク初日、彼はコ・ドライバーのイルッカ・キビマキと走り、クラッシュで177位へ順位を落とした。そこから壮絶な巻き返しを決めたのだ。
フィアット124アバルト・ラリーでの勝利
「ステージの高速区間でコースアウト。ハンヌ・ミッコラがクラッシュしたのと同じコーナーです。多くの人がコースから離れて見ていました。5速に入れて、かなりのスピードのまま、体勢を崩して立木へ突っ込みました」
「クルマは酷い状態でしたが、観客の手を借りて道へ戻しました。その後すぐに、別のドライバーも同じ場所でクラッシュし、リタイアしています」
「安全上、そのクルマも動かす必要があり、われわれも再スタートにかなりの時間を失いました。でも、次のステージでは最速でしたよ」
RACラリーの最終日、22才のアレンは3位にまで順位を戻していた。その戦いぶりに、ファクトリー・ドライバーとしての要望が殺到。1974年は、フォードとフィアットのチームで走ることに決まった。
「同じ年に2つのチームで戦ったドライバーは、わたしだけだったと思います。最終的にどちらかを選ぶ必要がありました。フォードとの契約は、1974年シーズンの一部のみ。フィアットはより多くのイベントでの参戦を希望していました」
「エスコートは素晴らしいクルマでしたが、フォードにはフィンランドの重鎮(マキネンとミッコラ)と、ロジャー・クラークが既に在籍していました。そこでフィアットを選んだんです」
大きな笑顔を浮かべ、少し間を置くアレン。「もちろん、その駆け引きで、沢山のお金も得ましたけれど」
1975年、フィアットで粘り強く速さを見せつけた。WRCのポルトガルでは、フィアット124アバルト・ラリーをドライブし、初めての勝利を獲得した。
この続きは後編にて。