【戦前のBMWを組み合せたクーペ】ブリストル400 英国新ブランドの誕生 前編
公開 : 2020.06.21 07:20 更新 : 2020.12.08 11:04
航空機技術を活かした少量自社生産
ミッレ・ミリアやタルガ・フィオリオ、ラリー・モンテカルロなどのイベントでブリストル400は優勝。クラッチはボルグ&ベック製で、電気系統はルーカス製だったものの、それ以外の部品はすべて自社生産だった点も注目だ。
ショックアブソーバーや、ドアロックですら自社製。航空機で鍛えた検査基準と、優れた金属加工技術を活用していた。
第二次大戦が終結し、軍事契約が切れてからは自動車を製造するというBAC社の計画は、戦時中から練られていた。BMWの輸入代理店、AFNリミテッド社のオーナー、ハロルド・ジョン・オルディントンと提携を組む前から。
AFN社が1930年代に英国で販売したBMWは700台あまり。効率的でハンドリングに優れたクルマとして、BMWは英国でも高い評価を獲得していた。
オルディントンは、優れたドイツ人経営者や技術者とのパイプを持っていた。戦争で空爆されたバイエルン・モーター・ワークス、BMWは、BACが温めていた自動車製造を実現する門戸を開くこととなった。
2.0Lエンジンの開発でも、オルディントンは役立つ人物だった。戦前にはBMW 328を販売し、レースにも参戦していたためだ。
一方でオルディントンは、BAC社の仕事には落胆したといわれている。ブリストル400の生産台数や魅力などは、彼の期待には及ばなかった。シンプルな326サルーンをベースとした量産モデルの計画を支持していた。
経営者や親戚が乗ったブリストル400
BAC社とAFN社は、1947年のジュネーブ・モーターショーでのブリストル400発表後、提携を解消する。当時の価格は、相当に高価な2400ポンド。控えめな生産台数も、慎重な開発が求められた航空機メーカーとしては自然な流れだったのだろう。
BAC社でマネージャーを務めていたのは、レジナルド・バードン・スミスとジョージ・ホワイトという若い2人だった。家族経営の企業として、期待を背負った新しい自動車部門には、経営者の息子も加わった。
社用車としてブリストル400に乗った、経営者と親戚たち。70年後の今、ブリストルを専門に扱うSLJハケット社のリチャード・ハケットが、その面倒を見ている。
レーサーのトニー・クルックの右腕として活躍したハケットは、1960年代に中古のブリストル400を、195ポンドで販売したことを覚えている。ブリストルのマネージャー、バードン・スミスが以前乗っていたクルマで、ナンバーはKHU 303だ。
最初に登録されたのは1947年5月。量産が始まって9台目のブリストル400だった。デモ車両として、1948年のAUTOCARでも試乗評価されたクルマだった。
これは、開発用車両でもあった。スペアタイヤはヒンジが下側に移動されたトランクリッドへ移設され、トランクリッドの形状試験が行われた。ブレードタイプのバンパーや、開閉するリアウインドウなども試行的に取り入れられている。