【家族代々のホットロッド】1934年製レオ・フライング・クラウドをレストモッド 前編

公開 : 2020.06.28 07:20  更新 : 2020.12.08 11:04

乾燥した気候が保った木製部品

「初めてレオの価値に気付かされたのは、1960年代初頭。通りがかりの男性が、1000ドルで売って欲しいと訪ねてきました」 と振り返るアル・パークス。

「父はその話を断りました。理由はわかりません。1週間のうち6日は仕事をし、休みの日は飛行機の趣味に費やしていたのですが」 レオの価値は、父の中で高まっていたのだろう。

レオ・フライング・クラウド 170デラックス・クーペ(1934年)
レオ・フライング・クラウド 170デラックス・クーペ(1934年)

ドン・パークスは交通事故で借金を抱えており、1948年式ビュイックを降りて、レオに乗り換えた。もともとは、地元の医者が大切に乗っていたクルマだった。

父は簡単な修理をすれば、レオはまだ走ると考えていた。スクラップにするのは惜しいと感じていた。そのままガレージに置かれ、月日が過ぎた。アル・パークスが父の思いを叶える、1973年を待っていたのかもしれない。

白煙とともに目覚めたレオは、地元の整備士へと託され、公道を走る力を取り戻した。毎月の給料の一部を整備費に当て、長年ガレージに放置されていた不具合を一掃した。

ミシガン州は冬が寒いが、クルマには優しい。多少の雪は降っても、乾燥した空気で深刻な腐食は進みにくい。フロアは木の板で、ドアとルーフも木材で組まれていたが、腐敗はしていなかった。

鉄製のボディの一部は錆びており、シャシーが見える状態にまでバラされた。完全な状態へ戻すために。

アル・パークスは仕事の合間に、レオの歴史を調べた。レオ・スピードワゴンというバンドがあったことと、レオ社をランサム・エリ・オールズが創設したことくらいしか、当時は知らなったという。

ランブルシート付きのデラックス・クーペ

ランサム・エリ・オールズは、後のオールズモビルになる会社の責任者も務めていた。オールズはオールズ・モーター・ビークル社を経営していたが、ライバルとなるビジネス展開を計画。1904年にレオ社を立ち上げた。

クルマの質は高く、すぐにオールズ・モーター・ビークルのモデルを超える支持を獲得した。特にレオ社の名を有名にしたのが、トラック。ちなみに、この成功を受けて名付けられたグループは、全米ヒットチャートを賑わせるビッグバンドになっている。

レオ・フライング・クラウド 170デラックス・クーペ(1934年)
レオ・フライング・クラウド 170デラックス・クーペ(1934年)

調べを進めると、アル・パークスのレオは1934年に作られた170デラックス・クーペだとわかった。リアデッキに収納されるランブルシートが備わり、通常のクーペとは差別化されたモデルだ。リアシートの乗員は、オープンエアを楽しむことができた。

リアウインドウは開閉式で、ルーフの付いた前席と会話も楽しめる。アル・パークスは、兄弟でランブルシートの下の荷室を行き来して、遊んだ記憶があるそうだ。

飛散防止加工されたガラスは、最初のオーナーが2速の半オートマティックと一緒にオプションとして装備させた。この半ATには200万ドルの開発費用が掛かったとされており、レオ社を倒産へ導いた理由の1つでもある。

ダッシュボードの下にTの形をしたハンドルが付き、ドライバーはクラッチペダルを踏まずに変速できた。この半ATも、レストアと一緒によみがえっている。

ボディも新たに塗り直された。ブラウンというよりも、ファッショナブルな陰影を持つ色味が選ばれた。

続きは後編にて。

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