【失われたアイデア工場の内側】ヴォグゾールのデザインスタジオへ潜入 後編
公開 : 2020.07.04 16:50 更新 : 2020.12.08 11:04
オペルの英国版ブランド、ヴォグゾール。1960年代、デザイン部門は黄金期と呼べる時期を迎えました。アイデア工場と呼べた場所は、2019年に完全閉鎖。内部に残されていたコンセプトモデルと合わせて、ご紹介しましょう。
レオ・プルノーとウェイン・チェリー
ヴォグゾールのエンジニアリング&スタイリング・センター、グリフィン・ハウスのボスは、デイビッドBジョーンからレオ・プルノーへ変わり、全盛期を迎える。
初代シボレー・カマロのデザインに関わった人物で、コークボトル・ラインは、後のヴォグゾールHBビバへも大きな影響を与えた。今でも、そのデザインの評価は高い。
GMで最も有名なデザイナーの一人で、グローバル・デザインのトップを務めていたビル・ミッチェルは、年に1度、グリフィン・ハウスを訪ねた。権威主義的な雰囲気を撒き散らして。
ミッチェルは、実寸大のクレイモデルへ注文を付けた。気に入らないデザインを目にすると、ランチから戻ってくる前に修正しておきなさい、と指示を出したという。
ちなみにクレイモデルとは、デザイン開発で制作する工業用粘土の試作モデル。スケールモデルもあるが、デザイン案が進むにつれて実寸大が作られる。
一方、レオ・プルノーの身代わり的に働いたデザイナーのウェイン・チェリーは、柔らかな雰囲気だった。グリフィン・ハウスの最盛期に、主要な役割を果たした。
アメリカの美術大学を卒業した彼は、GMへと入社。シボレー・カマロやオールズモビル・トルネードのデザインに関与。1965年にレオ・プルノーのアシスタントへ就任すると手腕を発揮し、ヴォグゾールXVRコンセプトのデザインに取り組んだ。
今でもウルトラ・モダンに見えるデザインだ。さらに強い影響力を放ったSRVコンセプトも生み出す。ルーイトンのグリフィン・ハウスの創造性を、強く世界へ知らしめることになった。
休眠状態になったデザインスタジオ
1970年になると、ウェイン・チェリーはアシスタント・デザイン・ディレクターに昇進。1975年まで、大きな仕事を手掛けた。
彼は常にスタイリッシュだった。フェラーリ308GTBでの毎日の通勤は、開発センターでも話題になった。
ケン・グリーンリーは、英国へ日産チェリーが初めて導入された時の反応を忘れない。「ウェイン・チェリーは、自身と同じ名前のクルマが登場したことを、嫌がっていました。日本車を真剣に捉えることは、最後までありませんでしたね」
グリフィン・ハウスの集大成ともいえるコンセプトカーは、1978年のエクウス・スポーツ・ロードスター・コンセプトだろう。量産されることはなかったが、くさび形のシルエット、ウェッジシェイプ・デザインの台頭をよく示している。
1983年へ時が進むと、GMは生産性や収益性を重視するように変化。技術やデザイン開発は、ドイツ・リュッセルスハイムへと統合し、オペルとヴォグゾールのモデルを展開するようになった。
デザイナーのウェイン・チェリーは、まだ英国に残っていた。1991年にアメリカへ帰国するまで、グリフィン・ハウスのデザイン部門が残っていた理由でもあった。
ヴォグゾール・エンジニアリング&スタイリング・センターは、GMがベッドフォードを売却した1980年代半ば以降、主だった活動を停止。GMはデザインスタジオを休眠状態にし、セールス・マーケティング部門へグリフィン・ハウスを割り振った。