【失われたアイデア工場の内側】ヴォグゾールのデザインスタジオへ潜入 後編

公開 : 2020.07.04 16:50  更新 : 2020.12.08 11:04

オペルの英国版ブランド、ヴォグゾール。1960年代、デザイン部門は黄金期と呼べる時期を迎えました。アイデア工場と呼べた場所は、2019年に完全閉鎖。内部に残されていたコンセプトモデルと合わせて、ご紹介しましょう。

レオ・プルノーとウェイン・チェリー

text:Steve Cropley(スティーブ・クロップリー)
photo:Will Williams(ウィル・ウイリアムズ)/Vauxhall(ヴォグゾール
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
ヴォグゾールのエンジニアリング&スタイリング・センター、グリフィン・ハウスのボスは、デイビッドBジョーンからレオ・プルノーへ変わり、全盛期を迎える。

初代シボレーカマロのデザインに関わった人物で、コークボトル・ラインは、後のヴォグゾールHBビバへも大きな影響を与えた。今でも、そのデザインの評価は高い。

ヴォグゾールXVRコンセプト(1966年)
ヴォグゾールXVRコンセプト(1966年)

GMで最も有名なデザイナーの一人で、グローバル・デザインのトップを務めていたビル・ミッチェルは、年に1度、グリフィン・ハウスを訪ねた。権威主義的な雰囲気を撒き散らして。

ミッチェルは、実寸大のクレイモデルへ注文を付けた。気に入らないデザインを目にすると、ランチから戻ってくる前に修正しておきなさい、と指示を出したという。

ちなみにクレイモデルとは、デザイン開発で制作する工業用粘土の試作モデル。スケールモデルもあるが、デザイン案が進むにつれて実寸大が作られる。

一方、レオ・プルノーの身代わり的に働いたデザイナーのウェイン・チェリーは、柔らかな雰囲気だった。グリフィン・ハウスの最盛期に、主要な役割を果たした。

アメリカの美術大学を卒業した彼は、GMへと入社。シボレー・カマロやオールズモビル・トルネードのデザインに関与。1965年にレオ・プルノーのアシスタントへ就任すると手腕を発揮し、ヴォグゾールXVRコンセプトのデザインに取り組んだ。

今でもウルトラ・モダンに見えるデザインだ。さらに強い影響力を放ったSRVコンセプトも生み出す。ルーイトンのグリフィン・ハウスの創造性を、強く世界へ知らしめることになった。

休眠状態になったデザインスタジオ

1970年になると、ウェイン・チェリーはアシスタント・デザイン・ディレクターに昇進。1975年まで、大きな仕事を手掛けた。

彼は常にスタイリッシュだった。フェラーリ308GTBでの毎日の通勤は、開発センターでも話題になった。

ヴォグゾール・エクウス・スポーツ・ロードスター・コンセプト(1978年)
ヴォグゾール・エクウス・スポーツ・ロードスター・コンセプト(1978年)

ケン・グリーンリーは、英国へ日産チェリーが初めて導入された時の反応を忘れない。「ウェイン・チェリーは、自身と同じ名前のクルマが登場したことを、嫌がっていました。日本車を真剣に捉えることは、最後までありませんでしたね」

グリフィン・ハウスの集大成ともいえるコンセプトカーは、1978年のエクウス・スポーツ・ロードスター・コンセプトだろう。量産されることはなかったが、くさび形のシルエット、ウェッジシェイプ・デザインの台頭をよく示している。

1983年へ時が進むと、GMは生産性や収益性を重視するように変化。技術やデザイン開発は、ドイツ・リュッセルスハイムへと統合し、オペルとヴォグゾールのモデルを展開するようになった。

デザイナーのウェイン・チェリーは、まだ英国に残っていた。1991年にアメリカへ帰国するまで、グリフィン・ハウスのデザイン部門が残っていた理由でもあった。

ヴォグゾール・エンジニアリング&スタイリング・センターは、GMがベッドフォードを売却した1980年代半ば以降、主だった活動を停止。GMはデザインスタジオを休眠状態にし、セールス・マーケティング部門へグリフィン・ハウスを割り振った。

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