【MINIの生みの親】イシゴニス ミニ誕生への転機 英アルヴィスで過ごした3年
公開 : 2020.08.04 07:50 更新 : 2021.03.05 21:04
新型車プロジェクト 中止
TA360の開発では試作車が造られ、テストが実施される段階まで進んだ。
しかし結局、この新型車プロジェクトは中止され、まぼろしのアルヴィスとなったのだ。その大きな理由は、資金にあった。
イシゴニスが開発していたTA350は、1919年の創業以来、一貫して伝統的な高品質モデルを製造してきたアルヴィスに、新たな活力を与える新型車プロジェクトだった。
だが、彼の先進的なアイデアを取り入れて製造するためには、生産設備に多額の資金を投じる必要があった。また、アルヴィスは小規模な自動車会社で、当時の年間生産台数は2000台ほどであったため、自社のボディ工場は持っていなかった。
そのためボディは外部の専門会社に委託しなければならなかったが、計画していた年間5000台という台数では、採算がとれないことが判明したのだ。
イシゴニスが取り組んだ新型車プロジェクトは、1955年6月に中止された。
イシゴニスはアルヴィスを去り、ほどなく古巣BMCに戻る。やがて、ADO15という小型車の開発プロジェクトが始まる。ミニの開発である。
アルヴィスで始まった ミニへの準備
試作車のテスト段階まで進んだプロジェクトが実を結ばなかったことは、アルヴィスにとってもイシゴニスにとっても残念な結果であった。
しかし、イシゴニスはアルヴィスでの3年間で、後のミニ開発における大切なものを得ている。
その1つは、サスペンションの専門家、アレックス・モールトンと初めて一緒に仕事をしたことだ。モールトンは、コンサルタントとしてイシゴニスのチームに加わっていた。
イシゴニス自身もサスペンションを得意とするエンジニアであったが、モールトンとのサスペンションの共同開発は、アルヴィスTA350で始まる。そして、後に取り組む新型車ADO15(ミニ)へと引き継がれ、ラバーコーン、ハイドロラスティックという2つのサスペンションの開発に成功する。
イシゴニスはBMCに戻ると、かつてはオースティンの本拠地で、合併後はBMCの本拠地となったロングブリッジで仕事を始める。
BMC最高権力者のレオナード・ロードの信任を得たイシゴニスは、また新たに少人数の小さなチームを結成するが、その主要メンバーのうち2人は、かつてアルヴィスでイシゴニスと一緒に働いていた技術者だった。
1人はクリス・キンガムというエンジンの専門家。もう1人は製図担当のジョン・シェパード。つまり、ミニの開発チームのうち、2人の技術者はアルヴィス出身者だったのだ。
イシゴニスが取り組んだアルヴィスの新型車は誕生しなかった。しかし、イシゴニスにとってアルヴィスでの3年間は、将来のミニの開発に必要な準備を整えていた期間だったという見方もできる。アルヴィスに在籍したからこそ、ミニは誕生したのかもしれない。