【グランプリから大陸横断旅行まで】ブガッティ・タイプ57Sカブリオレ 前編
公開 : 2020.08.23 07:20 更新 : 2022.08.08 07:37
課題は冷間時の始動性と弱いブレーキ
完成したタイプ57Sの走りに満足したマシソン。スタイリッシュなボディで、家のある英国北部のグラスゴーへすぐに出発したという。
セント・アンドルーズとグレンイーグルスなどへの週末旅行に、タイプ57Sを駆り出した。ブガッティの素晴らしい走りを、牧歌的なハイランド地方の道で楽しんだことだろう。
「その頃としては、とても高速なクルマでした。日曜日の夜にグレンイーグルスから帰る途中、ストレートで183km/hに達したこともあります」。彼はその後のオーナー、ブラニスラフ・スジックへ手紙で自身の記憶を伝えている。
同時に、マシソンのタイプ57Sは3つの問題も抱えていた。1つ目は、冷間時の始動性が悪かったこと。ガレージの温度を温め、キーガスと呼ばれるチョークに似た装置が必要だった。
2つ目は車高の低さ。うんざりするほど、と感じていたようだ。3つ目はブレーキが弱く、フロントタイヤがロックする悪癖があったこと。
タイプ57Sのオーナーになって、わずか3か月。仕事の変化に合わせて、マシソンはレース参戦を目指しロンドンへ移り住んだ。フランス製の大排気量スポーツカーが、彼をサーキットへ誘惑したのだろう。
競争力の高い、ドライエやタルボ製のマシンの供給は限られていた。ル・マンを戦ったブガッティ57Gタンクの購入も叶わず、マシソンは自身のタイプ57Sをレーサーへ改造することを決める。
コルシカ製ボディを載せ替えレーサーに
ロンドンの南、レザーヘッド近くのガレージへ関心を持った彼は、ブガッティのコルシカ社製ボディをそこで降ろした。技術も高く、マシソンはレース・メカニックを頼むほど。レース用のボディは、トムソン&テイラー社が手掛けた。
スタイリングは、ブガッティのファクトリーレーサーに従った。低いボディラインに、露出したエグゾースト。コクピットカウルにフロントガラスと、大きなドライエ風のフェンダーが付けられた。
メカニズム面にも手が入り、リアアクスルのレシオを4.2:1とロング化。高圧縮比のピストンが組まれ、ブレーキライニングが交換された。春が来ると、軽量化されたタイプ57Sの性能を確かめるため、マシソンはブルックランズ・サーキットを何度か訪れている。
「レイルウェイ・ストレートで200km/hに届きました。しかし余分な車重と、頼りないブレーキはそのまま。手のつけようがありませんでした」。マシソンが後に振り返っている。
ブガッティ・タイプ57Sのレースデビューとなったのは、1938年のグランプリ・アンベルス。マシソンはアントワープへ向かった。
タイプ57Sの操縦性は悪くなく、ライバルのドライエに迫るトップスピードも狙えた。しかし、ロングギアが加速面で不利。タイプ57Sは一時6位で走行するものの、最終的にリタイアしている。