【試作車と幻に消えた2シーター】デイムラー・ダート SP250とSP252 前編

公開 : 2020.09.05 07:20  更新 : 2020.12.08 08:35

AUTOCARの試乗評価も受けた赤いSP250

社内では、グラスファイバー製ボディのレッドカーと、スチール製ボディのブラックカーとして呼び分けられた。シャシー番号100000と100001はテストに用いられた。

100000番のシャシーに載るボディは、ターナーの右腕と呼ばれた、ビル・ウィックスがデザインを担当。ある段階では、赤いボディにトライアンフから触発されたような、えぐられたドアが付いていたようだ。

デイムラー・ダートSP250プロトタイプ(1959年)
デイムラー・ダートSP250プロトタイプ(1959年)

カーボディーズ社のデザイナー、パーシー・マクナリーはスタイリングを改め、ウエスラインから水平に続くドアを与えた。さらにテールフィンを追加し、フェンダーにはカーブを描くブリスターを加えている。

パーシーのデザインをもとに、量産版が決定。最終的なSP250プロトタイプは、シャシー番号100002に組み上げられた。小さな差はあるものの、ほぼ量産モデルと変わらない内容を得ていた。深みのあるフロントグリルが、わかりやすい違いだろう。

鮮やかな赤色のダート、SP250はイメージリーダーとなった。ワイヤーホイールにホワイトウォール・タイヤ、オプションのフロント幅いっぱいのバンパーを装備。AUTOCARの試乗評価にも使用され、雑誌ヴォーグの表紙も飾っている。

デイムラーも広告用やプレス用資料のために、シャシー番号100002、赤いSP250の写真を多方面で使用した。しばらくして広報車の役目を終えると、売却された。

1961年、漫画雑誌イーグルのイラストレーター、ドナルド・ハートリーがオーナーとなる。ちなみに、彼は人気キャラクター、ダン・デアのディレクションも行える立場にあり、SP250のパトカーが漫画へ登場している。

英国に帰ってきた2シーター・スポーツ

1962年にハートリーはサンビーム・アルパインのためにSP250を売却。詳細は不明ながら、その後1977年までに4名のオーナーが介在している。続いてオランダの作曲家が購入。カナダへ渡った。

10年ほど保管された後、カナダ人のダグ・ティトスキーとゲイリー・ティトスキーという兄弟が、1987年にオークションで落札。兄弟はクルマの重要性を理解し、その後30年にも及ぶレストアへ着手した。

デイムラーSP252プロトタイプ(1963年)
デイムラーSP252プロトタイプ(1963年)

2019年、JDHTがSP250を購入。英国ミッドランドへ戻ってきた。

初期のダート、SP250は英国でも一時期ほとんど姿を見かけなくなった。一方で、もしSP252がジャガーの手で量産化されていれば、SP250 MkIIとして登場していただろう。ダート愛好家の間では、ネタとしてよく上がる話題だ。

洗練された2シーター・スポーツに対して、高い見識を持っていたウィリアム・ライオンズ。自身も、アップデートを受けたSP250、SP252を短い距離ながら運転したはず。トライアンフTR4やビッグ・ヒーレーと、イメージを共有するクルマとして。

また部品を可能な限りジャガーと共有し、経済的なスケールメリットを得られるとも判断。バルクヘッドやエンジンベイ、キャビンの構造はオリジナルのSP250を引き継ぎつつ、新しいスタイリングが検討された。

ジャガーのプロトタイプ・ワークショップ部門を率いていたフレッド・ガードナーとともに、ライオンズはハンサムなコンバーチブル・ボディを生み出す。アストン マーティンDB4のようなテールには、トライアンフのバイク用燃料タンクが収まっている。

この続きは後編にて。

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