【ローライダー・クイーン】ピンク色のシボレー・インパラ 東LAのアイコン 前編

公開 : 2020.09.13 07:20  更新 : 2020.12.08 08:36

メキシコ・レストランとバーレスク女優

若い頃は、キッド・ストライパーと呼ばれていたプレイ。自身で絵筆をとったクルマで実力の高さを示し、セプルベダ・ブールバード沿いのカスタムショップで仕事を始める。その後、1970年代の初めにピンストライパーとして独立した。

プレイは当初、脚光を浴びるような存在ではなかったし、それを嫌った。店から出ることはなく、経験を重ね著名になっても、テレビ取材などは好まなかった。

シボレー・インパラ(1965年)「ジプシー・ローズ」
シボレーインパラ(1965年)「ジプシー・ローズ」

1975年、プレイが所有していたクルマは1台のみ。シボレー・ノマドだ。名声を求める性格ではなかったものの、彼の才能を隠せない仕上がりだった。彼のノマドを知る人の間では。

ジェシー・バラデスも、ウォルト・プレイに強く惹かれた1人。そして、バラデス最大のカスタムカーを、プレイへ依頼することになる。2代目のジプシー・ローズだ。

インスピレーションは、メキシコ・レストランの派手な色使いに影響を受けたとされている。バーレスク界の女優、ジプシー・ローズ・リーへの憧れも含まれていたに違いない。

際立って目立つ仕上がりを期待したバラデス。前例がないほど見事なバラの花が、無数にボディへ描かれることになった。

2代目ジプシー・ローズは、プレイにとってフルカスタム・ペイントの初仕事でもあった。精魂込めて制作に取り組み、ソリッドカラーで炎を描く、当時のスタイルを破る仕上がりを目指した。

ギャングによる破壊と3代目の制作

車内も抜かりはない。注目は、クルマへ乗り降りする際、シートが跳ね上がるように上下するカスタムシート。クルマ全体で共通するカラーは、鮮やかなピンクだ。

完成した2代目ジプシー・ローズは、1968年のウインターナショナルズ・ロッド&カスタム・ショーへ出品。大きな話題を巻き起こした。ロサンゼルスでは伝説的な存在として、すぐに知名度を高めた。

シボレー・インパラ(1965年)「ジプシー・ローズ」
シボレー・インパラ(1965年)「ジプシー・ローズ」

同時にバラデスと、インペリアルズ・カークラブの名も広まった。強く輝く存在として注目を集めるものの、長くは続かなかった。

ギャングがはびこるエリアで、インペリアルズ・カークラブはパーティを開催。嫉妬深いギャングたちは、リアウインドウにインペリアルズのロゴが記されたジプシー・ローズを路肩に放置し、自分たちのローライダーで走り去ったという。

表向きは事故で壊れたという話しだったが、実際はバットやレンチで滅多打ちにされたらしい。2代目ジプシー・ローズは、誕生から9か月という短い命で終わった。

バラデスの友人で、インペリアルズ・カークラブの会計を今も務めるマイク・トーレスが振り返る。「当時も、ギャングとの関わりや敵対を望んではいませんでした。バラデスが決めたことでした。事実は隠し、事故だったと伝えたのです」

屈することなく、バラデスはジプシー・ローズの復活を決心。長い時間をかけて、プレイに再び絵筆を取ってもらえるよう、説得した。

この続きは後編にて。

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