【余命を伸ばすレストア】デューセンバーグ・モデルSJ 世界最高を復活させる 前編
公開 : 2020.09.27 07:20 更新 : 2020.12.08 08:38
1921年フランス・グランプリでの優勝
最初に制作したのは4.9Lの直列8気筒エンジンで、3バルブのSOHC。続いてレギュレーションに合わせ、3.0Lユニットを設計した。
1920年のインディアナポリスで強さを示し、翌1921年のフランス・グランプリでは、ジミー・マーフィーがバッロ 3/8 LCを破り優勝。
1967年のベルギー・グランプリでダン・ガーニーのイーグルが優勝するまで、F1の前身も含めるトップ・フォーミュラで、アメリカ製レーシングカーが収めた唯一の勝利だった。
反面、デューセンバーグはモータースポーツでの競争力を、ロードカーへ展開することは不得意だった。誰にも得手不得手があるものだ。
直列8気筒エンジンと4輪油圧ブレーキを搭載した、アメリカ製初の量産モデルとなったのが、1921年にリリースされたデューセンバーグ・モデルA。活発さに欠ける動的性能と、冴えないコーチビルド・ボディのおかげで、可能性は充分に引き出せなかった。
販売は伸びず、1924年に経営資金は底を尽きる。1925年に事業再編を図るものの、翌年に再び破綻。
そこへタイミング良く、自動車メーカーのオーバーン社などを経営していた、実業家のエリック・ロバン・コードが手を差し伸べる。コードは兄弟の名を関したブランド名と、その技術力を評価していた。
チャンスをもらったフレデリックは、デューセンバーグの名に恥じない、世界屈指のロードカー制作に乗り出す。コードが有する巨大な資金力と、デューセンバーグの技術が融合し、見事な結果が導かれた。
ブランドの勢いと豊かさを象徴するSJ
着手から2年後の1928年、当時としては最高の1台と呼べる自動車が完成する。それこそ、デューセンバーグ・モデルJだ。
モデルJは、類まれな品質で高い評判を集めた。フレデリックの技術力を証明するものだった。
スポーツカーでも100psを超えるのに苦労していた時代、先進的な6882cc直列8気筒DOHCユニットは、268psを生み出した。1気筒あたり4バルブで、アルミニウム製のピストンとコンロッドを備えていた。
レーシングカーと同様に、ブレーキはケーブル式ではなく油圧式。どこを見ても、技術者としての賢明なソリューションに気付かされる。さらにスーパーチャージャーで過給されるSJが、ブランドの勢いと豊かさを象徴した。
狙い通りの設計といえる、4分岐のエグゾースト・マニフォールド。見事なクロームメッキで仕上げられている。ジャック・テバーグがオーナーの、ジェットブラックに塗られたボディでは、特に威圧的な様相だ。
でも、オーナー自身はとてもフレンドリー。コーナリングの度に、晴れやかな笑顔を見せてくれる。寛大な人柄がにじみ出ている。クルマを停め、息子、ラリーの手を借りてデューセンバーグから慎重に降りてきた。
美大で油絵を専攻する学生が、初めてモナリザを見るように、モデルSJの細部まで見入ってしまう。よく知っているつもりだったのだけれど。
この続きは後編にて。