【ジャイアント・キラー】MG J4レーサー ブガッティやアルファに挑んだベビーK3 前編
公開 : 2020.11.15 11:50 更新 : 2020.12.08 08:18
戦前のレースで活躍したベビーK3
細身のサイクルフェンダーで、ドライバーに泥のシャワーを浴びせた初期のJ2。生産開始から4ヶ月後には、後方へ長く伸びるフェンダーを採用し、それも改善されている。
そして、Jシリーズの中で最も熱い仕様だったのが、今回ご紹介するJ4。MGのコンペティション部門で手作りされた、ロードレーサーだ。
見た目はJ2と共通するが、レース用に仕立てられたエンジンは、スーパーチャージャーで過給。トランスミッションも別物だった。シャシーは、追加のパワーとスピードに合わせて改良。ドラムブレーキは12インチに大きくなっている。
ステアリング・ロッドも改良を受け、Jタイプで見られたキックバックを軽減。ドアを固定式にすることで、ボディを補強した。エグゾーストはリアフェンダーに沿うように立ち上がり、フィッシュテール・サイレンサーから排気ガスが放たれた。
一回り大きいMG Kシリーズにちなんで、ベビーK3と呼ばれたコンパクト・レーサーは、戦前のスポーツカー・レースで活躍。ジャイアント・キラーとして評価を集める。特に北アイルランドのエース、ヒュー・ハミルトンによる戦いが、J4の名声を高めた。
ヒュー・ハミルトンは、MGワークス仕様の746ccエンジンを積んだ軽量なJ4で、圧倒的な速さを見せた。1933年5月28日、ニュルブルクリンクを戦ったハミルトンは、28才だった。
グランプリと併催されたレースの、800cc以下クラスに参戦。12周で争うレースで、ブガッティ・タイプ37やグランプリ・マシンよりも速い95.43km/hという平均速度を出し、優勝している。
9台のみが手作りされた特別なレーサー
MG J4は、特別なマシンだった。若いドライバーをターゲットに、わずかな数だけが作られた。当時の価格は、J2の倍以上の495ポンド。製造台数は9台のみで、7台が現存している。
そんな貴重なJ4のドライバーになった1人が、ルイス・フォンテス。1932年12月に二十歳になったばかりの熱心な若者は、遺産の一部をつぎ込み、ディーラーを通じてJ4をオーダーした。
シャシー番号005のJ4がやってくると、フォンテスは次々にレースへ挑戦する。彼にとっての初のビッグレースは、1933年9月2日に開かれたRACツーリスト・トロフィー。ホームとなる、アイルランドでの開催だった。
6時間というコンセプトに則り、769kmという長距離で競われた。参戦車両には、スーパーチャージャーで加給される8台のJ4が含まれていた。ヒュー・ハミルトンのほか、今回ご紹介するJ4を駆る、ルイス・フォンテスのマシンも。
アメリカ人グランプリ・ドライバーのホイットニー・ストレートは、MG K3で参戦する予定だった。しかし開始直前にドクターストップがかかり、ドライバーを変更。伝説のイタリア人ドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリがK3のシートに座った。
J4はマッドガードなしでの出走。高いカウルと、ドライバー側に1枚の小さなフロントガラスが装備されていた。
ところがフォンテスは、熱くなりすぎたのか早々に脱落。エンジンは丘の頂上で悲鳴を上げ、コネクティング・ロッドが折れてリタイアしてしまう。しかしJ4から降りたフォンテスは、見事な戦いを目撃する。
この続きは後編にて。