【ジャイアント・キラー】MG J4レーサー ブガッティやアルファに挑んだベビーK3 後編
公開 : 2020.11.15 18:50 更新 : 2020.12.08 08:18
自動車ファンの記憶に刻まれたMG J4の戦い
彼の才能は、アメリカ人グランプリ・ドライバー、ホイットニー・ストレートに深い感銘を与えた。熱いハミルトンは、ストレートのマセラティ8CMでの参戦に招かれる。
1934年、ウェット・コンディションとなったスイス・グランプリに参戦したハミルトン。不運にもフィニッシュライン手前の立木に最終ルラップでクラッシュし、命を落としてしまう。弱冠29歳だった。
これらの戦いから、多くのクラシック・ファンは、MG J4の特別さを知っている。プライベート・レーサーのデビッド・パイパーもその1人。ヒュー・ハミルトンのMG J4、シャシー番号002を所有していた経歴を持つ。
1954年、オートスポーツ誌の表紙を、20年もののJ4が飾った。「素晴らしいクルマでした」。と、パイパーは後に振り返っている。
「心の底からMG J4を愛していました。多くの成功を残してきたクルマです。特にENVのトランスミッションは、フェラーリGTOのように見事なシフトタッチです。エンジンも素晴らしい」
さて、RACツーリスト・トロフィーでリタイアしたルイス・フォンテス。1933年から35年まで、シャシー番号005のJ4は現役だったが、アルファ・モンツァを購入するとMGは一線を退く。
MG J4は、フォンテスの日常の足としてしばらく愛用された。1934年には、フランス・モンレリーでのボル・ドール24時間レースのために友人へ貸し出されてもいる。
1936年、Jヒューソンへと売却されると、J4のパワープラス・スーパーチャージャーは、マーシャル・ブロワーへと交換。ブルックランズでのレースに出場した。
戦前のクルマとは思えないシフトフィール
その後、MG J4はスコットランドの販売店を仲介し、アメリカ人パイロット、ジーン・アルコットに買い取られる。北米東海岸に移り住んだアルコットは、設立間もないスポーツカー・クラブ・オブ・アメリカ主催のイベントで楽しんだ。
1950年代に入ると、数名のオーナーを経て、ハワード・バイロンがコレクションに追加。1971年2月にカーコレクターが買い取り、さらにアメリカでは著名なMG愛好家のジェリー・ゴーゲンが迎え入れた。
ゴーゲンはMGの第一人者、コリン・ティエシュにJ4のレストアを依頼する。見事なオリジナル状態が保たれていたという。作業中、パワープラスNo8というオリジナルのスーパーチャージャーも、フランスで発見されている。
筆者は1960年代から、シルバーストン・サーキットで速いJ4を目にしてきた。初期のMGミジェットなどに対しても、特別な思い入れがある。いつの日か、素晴らしいMG J4を運転してみたいと願ってきた。
そしてついに、今回はジョン・ポルソンという人物の協力で、J4のステアリングを握る機会が巡ってきた。期待通りの、素晴らしい体験だった。
クロスレシオを備え、強化されたENVトランスミッションは、素晴らしいシフトフィールを持つ。滑らかで素早い動きは、戦前のクルマとは思えない。
小排気量の4気筒エンジンは、低回転域ではパンチ力に欠ける。しかし回転域が上がるほど活発さを増し、4000rpmを超えた辺りで心地よいサウンドを放ち出す。