【メルセデスSLを夢見て】キャデラック・アランテ イタリアからボディを空輸 前編

公開 : 2021.01.09 07:25

メルセデス・ベンツSLに対抗するべく計画された、キャデラック・アランテ。イタリアでボディを製造し、半完成の車体がアメリカへ空輸されました。当時のGMが抱えた葛藤で生まれた高級2シーターを、ご紹介しましょう。

ピニンファリーナ社でボディを生産

text:Greg Macleman(グレッグ・マクレマン)
photo:Luc Lacey(リュク・レーシー)
translation:Kenji Nakajima(中嶋健治)

 
非現実的な、大胆な発想。例えば、カクテルのトムコリンズに使う氷を北極から運んでくる。きっと美味しい1杯になる。

では、キャデラックのラグジュアリー2シーターを、イタリアのカロッツエリア、ピニンファリーナ社に依頼するのはどうだろう。デザインだけでなく、車体の生産まで。こちらの仕上がりも、悪くはなさそうだ。

キャデラック・アランテ(1986〜1993年)
キャデラック・アランテ(1986〜1993年)

1986年に発売されたキャデラック・アランテは、ボディとインテリアをイタリア・トリノで生産。アリタリア航空とルフトハンザ航空が運行するボーイング747に積まれて、アメリカへ空輸された。

ジャンボ機1機に積めたアランテは56台のみ。アメリカに到着すると、現地で組み立てられていたエンジンや足回りとマリアージュ。イタリアへ戻るジャンボジェットで、アメリカから必要な部品を運ぶ。空荷の回送ではもったいない。

アランテをヨーロッパで販売する時は、完成車両が再び空の旅を楽しんだ。こんなビジネスモデルを、ジャスト・イン・タイムで生産管理する現在の工場管理者や起業家に提案したら、めまいで倒れてしまいそうだ。

専門家でなくても、コストが高くなることは明らか。だが当時のキャデラックにとっては、メリットも多かった。

キャデラック・ブランドを擁するジェネラル・モータース、GMは、デトロイトのフィッシャー・ボディ工場を閉鎖。先進的なクルマの設計や生産に対応する力を失っていた。既存の量産ラインを、少量生産に対応したものへ効率的に改める技術も、持ち合わせていなかった。

イタリア生産の事例は少なからずあった

一方のピニンファリーナ社には、その準備が整っていた。数千kmという距離の隔たりはあったものの、アメリカン・ブランドとの経験も古くから積んでいた。

1931年、ピニンファリーナを創業したバッティスタ・ファリーナは、アラブの富豪から依頼を受け、ボートテール・ボディのスピードスターを制作。狩猟のための格納シートが付いたクルマで、エンジンはキャデラック製のV型16気筒を載せていた。

ボーイング747に積まれるキャデラック・アランテのボディ
ボーイング747に積まれるキャデラック・アランテのボディ

1959年には、エルドラド・ブロアムの制作で再びコラボレーション。今回のテーマ、アランテのようにイタリアで組み立てられ、アメリカへ運ばれている。その時は船で。

エルドラドより以前にも、いくつかの例が存在している。アメリカのハドソン社は、トリノのコーチビルダー、ツーリング社と協働。AMCに合併吸収される前に、イタリアン・デザインのモデルを生み出した。

デトロイトでデュアル・モータースを立ち上げたユージン・カサロールは、クライスラー製のシャシーをイタリアのギア社へ運搬。再びアメリカへ運び、デュアル・ギアというモデルとして販売した。

しかしハドソンもデュアル・モータースも、成功といえる結果は残せていない。ハドソン社の新モデル計画は、25台を生産した時点で中止。キャデラック以上の高額なクルマになることが、その理由だった。デュアル・ギアも、売れるほど赤字になる始末。

エルドラド・ブロアムも、いい結果は残せていない。生産された数は、100台以下だったという。

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